言葉が科学を世界へ運ぶ——坂口志文先生、スウェーデン語の教室へ
授賞式に先立ち、外国語学部に一日留学!
科学者が研究を世界へ届けるとき、そこに“言葉”と“文化への理解”は必要不可欠だ。
国立大学で唯一のスウェーデン語専攻に「一日留学生」として迎えられた坂口志文先生。スウェーデンの首都、ストックホルムで開催されるノーベル賞授賞式を3週間後に控えた11月19日、「もしあなたがノーベル賞の授賞式に出席することになったら」と題した特別授業が始まった。
冒頭、進行役の古谷大輔教授が「恐れ多いのですが、今日は坂口特別栄誉教授を『坂口さん』とお呼びして、スウェーデン語専攻の仲間としてお迎えしたい」と挨拶。これに「坂口さん」は、「スウェーデン語は『Tack』(タック=ありがとう)しか覚えていませんが、ぜひ勉強させていただきます」と応じ、約70名の学生たちと並んで着席した。
第一部の「ノーベル賞の国を知る-スウェーデンでの学びを通して-」では、高橋美恵子教授が、全ての人のウェルビーイングを目指すスウェーデンの政策や社会の特徴をレクチャー。続いて留学を経験した西山憩さんと稲葉尚子さんが、現地の生活や伝統行事の実感を発表した。「坂口さん」は、「真冬のスウェーデンを訪れるのは初めて。クリスマスシーズンに街を歩くのが今から楽しみです」と、一人の旅行者のような笑顔でコメントを寄せた。
続く第二部「ノーベル賞の言葉に触れる-スウェーデン語の心を通して-」には、古谷大輔教授、南澤佑樹講師、サーヴァ・ハシェミ特任講師が登壇。
ノーベルウィークで使える実用的な表現に加え、授賞式や晩餐会を貫く「Lagom(ラーゴム)」の哲学が紹介された。この言葉は本来「法・秩序に従って」を意味するが、一般にはかつてヴァイキングたちが一杯の角杯(Laget)を回し飲み、全員に「ちょうど行き渡る」 ようにしたという話とともに知られている。スウェーデンの人々が尊ぶ「Lagom」の本質は、「フレンドリーだが、馴れ馴れしくない」、「伝統的でありながら、堅苦しくない」といったように、互いの自律を尊重しつつ温かく寄り添う「絶妙な距離感」にある。静謐さのなかにもこの精神が息づくノーベル賞の式典を想像しながら、「坂口さん」も学生たちも、現地の空気感に触れるかのように聞き入っていた。
質疑応答では、学生たちからの素朴な問いにひとつひとつ丁寧に答える「坂口さん」の姿が印象的だった。「メダルチョコのお土産は?」という質問には、「実はたくさん頼まれていて、手で持って帰るのが大変だから郵送しようかな」と答え、会場は温かな笑いに包まれた。
最後に「坂口さん」は、「今日教わったことをふまえ、スウェーデン語も一言二言話せるように勉強します」と結んだ。科学の真理を追究する姿勢と、異文化の心に触れようとする知性が重なった瞬間だった。
言語と文化への深いまなざしは、箕面のキャンパスと人類の知の祝祭を、もっとも 「Lagom」な温度で結び合わせるのだ。
■大阪大学外国語学部 スウェーデン語専攻
大阪外国語大学時代の1985年に創設され、スウェーデン語学、スウェーデン社会、スウェーデン史の授業科目を中心に開講している日本の国立大学唯一の専攻。2007年にスウェーデン政府より日本のスウェーデン語教育に長年貢献したことで功労賞を授与されている
クラスナホルカイ・ラースロー氏とハンガリー語専攻との繋がり
文・早稲田みか(大阪大学名誉教授)
坂口先生とクラスナホルカイ氏 12月10日 ノーベル賞授賞式リハーサルにて
ハンガリーの作家クラスナホルカイ・ラースロー(名前は姓・名の順)が、2025年ノーベル文学賞を受賞した。クラスナホルカイは、じつは日本、そして大阪大学外国語学部とも縁がある。2005年、大阪外国語大学時代に箕面キャンパスを来訪し、ハンガリー語専攻生を前に、「滝の美しさは水の集合体ではない」と、美についての深い形而上学的講話を展開して、学生たちを煙に巻いた。京都を舞台にした小説『北は山、南は湖、西は道、東は川』も、不穏な終末論的気配の漂う哲学的迷宮小説である。
自然科学系のノーベル賞が、数式や実験データといった共通言語によって理解・評価されるのに対し、文学はそうはいかない。作品の言語が理解されなければ、選考の対象にすらならないからだ。そこで翻訳が重要になるが、近年では多くの分野でAIが人間に代わりつつあり、外国語学習の実用的価値も過小評価されがちである。
しかし、たとえAIが言語を処理できたとしても、その言語が長い歳月をかけて育んできた文化的・歴史的記憶や価値観、世界の切り分け方、さらにはコンマやピリオドの意味――クラスナホルカイ作品は、一文がうねるように長々と続くことで知られ、ピリオドが最後に一つしかない短編もある――までを自動的に理解できるとは思えない。
異なる言語や文化を学ぶことは、自文化を相対化するための知的技法を身につけることであり、それは新たな想像力の源泉ともなる。
クラスナホルカイにとっても、日本文化との出会いは運命的なものだったにちがいない。受賞記念講演では、京都・鴨川にたたずむオオシロサギの一節を引用し、受賞式(坂口志文先生の隣の席!)後の晩餐会では、ウィリアム・フォークナーやトマス・ピンチョンと並んで、京都市に謝辞を捧げ、さらにノーベル博物館には日本の根付(ねつけ)を寄贈している。
■早稲田 みか(わせだ みか) プロフィール
大阪大学名誉教授(外国語学部ハンガリー語専攻)
1993年10月から2021年3月まで大阪外国語大学・大阪大学外国語学部においてハンガリー語教育・研究に携わる。クラスナホルカイ氏の2003年の作品『北は山、南は湖、西は道、 東は川』を訳した(松籟社、2006年。現在唯一の邦訳書)。
(本記事の内容は2026年2月発行の 大阪大学NewsLetter 94号 に掲載されたものです。)