■ 漫画家の夢と、大学進学のはざまで
「小学校の卒業文集には『漫画家になりたい』って書いていました」。そう笑う土屋うさぎさんの創作の原点は、幼少期にまでさかのぼる。漫画が大好き。アートスクールに通いながら絵を描くことに夢中だった。図工では「絵が上手だね」と褒められることが多く、その積み重ねが漫画家への憧れを育んでいったという。「大好きな漫画から、たくさんのワクワクやドキドキをもらいました。その感動を、いつか私が誰かに贈ることができたら素敵だなと思っていたんです」。その夢は中学、高校へ進んでも変わらなかった。しかし美術系の進路は選ばず、理系科目が得意だったことや家族の勧めもあり、大阪大学工学部への進学を目指した。漫画家・手塚治虫が大阪大学の前身である大阪帝国大学の出身だったことも、その理由の一つだ。「あれほど才能のある人でも、きちんと勉強して大学へ進学している。それなら自分も勉強を頑張ろうと思えたんです」。漫画家になる夢を手放したわけではない。ただ、その夢は「いつか」という言葉とともに、心の奥に静かに置かれていた。
■ 阪大で過ごした日々が、作品の舞台に
阪大工学部での学生生活は、土屋さんにとって新鮮な驚きの連続だった。同じ学科約250人の学生のうち、女子学生は十数人。周囲にはロボットや材料、機械工学への強い興味を持ち、「この技術を研究したい」「ものづくりがしたい」と目を輝かせる同級生。自身の学業のモチベーションとの違いを感じることも少なくなかったという。一方で、学業以外の、普段の生活からも学びを得ていた土屋さん。ダンスサークルで出会った仲間たち。人気ベーカリーでのアルバイト。その経験は、小説家としてのデビュー作『謎の香りはパン屋から』へとつながっていく。当時は、作品の材料を集めているつもりなどなかった。しかし、何気なく過ごしていた学生生活や、人との出会い、街の風景は、時を経て物語の中で再び息を吹き返す。「初めて小説を書くなら、自分が経験したことを書くのが一番書きやすいと思ったんです」。阪大で過ごした日々は、後に小説を紡ぐ原風景となっていた。
■ “いつか”を“今”に変えた大学3年生
転機が訪れたのは、新型コロナウイルス感染症の流行により大学生活が一変した3年生。給付金を活用して液晶タブレットを購入し、これを好機と本格的に漫画制作へ踏み出した。「それまでは『いつか漫画家になりたい』と思っていただけで、何も行動していなかったんです」。最初に飛び込んだのは、漫画家・おぎぬまXさんのアシスタント募集だった。リモートで背景作画などを担当しながら、作品づくりを間近で学んだ土屋さん。何度も描き直し、細部まで妥協せず作品を磨き続けるプロの姿勢を目の当たりにした経験は、後の土屋さん自身の創作にも大きな影響を与えた。やがて、土屋さんは一つの決断をする。「大学を休学して、本気で漫画に挑戦してみようと思いました。周りの阪大生が、やりたいことに情熱を燃やしていたからこそ、私も夢に向き合おうと」。休学中、アシスタントとして仕事を続ける中で、創作を仕事として続けられる手応えを得た土屋さんは、やがて大学中退という決断を下す。家族からは反対もあった。それでも、「言っているだけだった夢」を現実に変えるには、自分で一歩を踏み出すしかない。休学の一年は、「いつか」を「今」に変え、漫画家として生きる覚悟を固めた時間だった。
■ ゼロイチよりも、イチを磨き上げる力
2023年に漫画家としてデビューを果たした後、新たな挑戦となったのが小説だった。漫画のネーム制作に苦戦していた頃、師匠であるおぎぬまXさんから「小説を書いてみたら」と勧められたことがきっかけだ。色々な小説を初めて「書き手」として読み返したり、ミステリー作品としての強度を高めたりなど試行錯誤しながら、主人公は阪大生、そして働くパン屋は「ローフベーカリー」がモデルの物語を書き上げた。土屋さんのアルバイト仲間やサークルの友人をもとにした人物も登場する『謎の香りはパン屋から』は、会話などのリアルな空気感が評価され第23回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞。漫画家と小説家という二つの肩書を持つ、異色の作家が誕生した。
土屋さんが創作で一貫して大切にしているのは、「また会いたい」と思ってもらえる人物を描くことだ。だからこそ、作品づくりでは、ひらめきだけに頼らない。一度生まれたキャラクターや物語に何度も向き合い、推敲を重ねながら少しずつ磨き上げていく。「0から1を生み出すだけではなく、生まれた1を何度も磨いていくことも大切なんです」。生成AIが文章やイラストを生み出す時代になった今も、土屋さんは「AIは全く使っていません」と話す。大切にしているのは、人が実際に生きた時間からしか生まれない感情や発想力だ。阪大での日々、「ローフベーカリー」で働いた経験、友人との何気ない会話。そのすべてが物語の種となり、作品に息づいている。幼い頃から夢を追い続けた日々も、一歩を踏み出した大学時代も、決して遠回りではなかった。その時間のすべてが、今の土屋うさぎという作家を形づくっている。
■ 土屋 うさぎ(つちや うさぎ) プロフィール
大阪府箕面市生まれ、東京都府中市育ち。大阪大学工学部応用理工学科中退。漫画アシスタントを経て漫画家に。2023年に集英社・第98回赤塚賞準入選などの漫画賞を受賞。24年、初めて執筆した小説『謎の香りはパン屋から』で、宝島社が運営する公募小説新人賞の第23回『このミステリーがすごい!』大賞で大賞を受賞し、小説家デビュー。26年、続編となる『謎の香りはパン屋から2』を発表。
■ 店舗情報
ベーカリー&スイーツショップ ローフ ベーカリー
OPEN 9:00-CLOSE 19:00
大阪府豊中市清風荘2-4-23 阪急宝塚線「石橋阪大前」駅より徒歩約7分
TEL:06-6842-2218
[Web] https://theloaf.jp/loaf_bakery/
■ 書籍情報
『謎の香りはパン屋から』 『謎の香りはパン屋から2』
いずれも、著:土屋うさぎ 装画:出水ぽすか 定価:1650円(本体1500円) 発行:宝島社
(本記事は、2026年10月7日発行の 大阪大学NewsLetter 95号 に掲載されたものです。)