■ 予定調和ではなかった医師への道
その道は、決して平坦ではなかった。大阪外国語大学(現・大阪大学外国語学部)へ進学するも、健康上の理由もあり、卒業時は24歳。木本さんの就職活動は思うように進まなかった。将来に迷う中、人生を大きく変える一冊の本に出会う。精神科医・中井久夫氏の『分裂病と人類』。社会精神医学という学問に誘われ、猛勉強の末27歳で奈良県立医科大学へ進み直した。「医学部に行けば生活の糧も得られるし、好きな学問も追究できる――そんな夢を抱いていました」と当時を振り返る。
卒業後、精神科医を志して京都大学附属病院精神科で研修医となったものの、現実の大きな壁が立ちはだかる。「一日中患者さんと向き合って、研究もして論文も書いて。スーパーマンのような医師になりたかった。でも、それが叶わないことを感じる時期でした」と語る木本さん。理想とする仕事やポストそのものが、ほとんど存在しない。同期が就職を決めていく中で、一人行き場を失う状態が続いた。
焦りを感じる中で出会ったのが、公衆衛生の専門家であり、当時大阪大学の教授を務めていた多田羅浩三氏だった。研究室に入り、社会全体の健康を守るための研究を始めつつ、紹介された三次救急病院の現場に飛び込んだ。脳外科の医師たちから手取り足取り救急医療を叩き込まれる日々が始まる。それはまさに木本さんが憧れた、「かっこいい医師」を体現する充実した時間だった。
■ アフリカでつかんだ公衆衛生の軸
しかし、転機は突然訪れる。病院の体制変更などにより、1年半で職を去らざるを得なくなったのだ。「これからという時に放り出され、技術も中途半端。途方に暮れ、しばらくはアルバイト生活をしていました」。そんな時に救いとなったのが、JICAのタイ派遣プロジェクトのピンチヒッターの話だった。エイズ・性感染症対策に携わり、地域社会全体を視野に入れた予防や政策の重要性を、現場で初めて実感することになる。流行地では、WHO(世界保健機関)の方針に基づく先進的な取り組みが進められており、日本の医療現場とは異なる発想やスケールに触れる日々だった。
JICA パヤオ・エイズアクションセンター関係者集合写真
「立場上は公衆衛生の専門家として派遣されていましたが、逆にエイズや性感染症対策に対する世界の常識を学ばせていただきました」と木本さんは語る。大学時代に学んだヒンディー語も、サンスクリット語を源流とするタイ語の理解に役立ち、異国の地でのコミュニケーションを支える力となった。
1997年ロンドン大学衛生学熱帯医学大学院における短期エイズ・性感染症研修
この経験を通して、公衆衛生のプロとしての軸が明確になる。博士論文のテーマは『エイズ・性感染症対策』と定めた木本さん。「エイズの流行地であるアフリカを知らずに専門家とは名乗れない」との思いから、1998年、国境なき医師団のマラウィ共和国エイズ予防プロジェクトに参加。必要とされる場に身を置いてきたキャリアの中で、明確な意思をもって決断した進路のひとつだ。
そこで直面したのは、医療スタッフですら「自分が感染しているかもしれない」という恐怖から、輸血が必要な患者への献血を拒むという過酷な現実だった。「感染を知るのが怖い」。沈黙が蔓延する現場で、エイズの本当の怖さを、身をもって知ることになった。木本さんが活動に参加した翌年の1999年、国境なき医師団は世界各地での先駆的な医療・人道援助活動が評価されノーベル平和賞を受賞。国際的な注目と存在感を高めたこの時期、木本さんは数少ない日本人ボランティアの一人として奮闘していたのだ。
1998年国境なき医師団 東アフリカ・マラウィ ムアンザ郡農村の診療所にて
■ 「孤軍奮闘」を経て臨むさらなる挑戦
国境なき医師団での活動後、ハーバード大学への留学を経て大阪大学大学院で博士号を取得。再びJICAのエイズ・性感染症対策ミッションでチュニジア共和国に駐在し、続いて インドで WHO南東アジア地域事務所の短期コンサルタントも歴任。世界をフィールドに活躍する公衆衛生の専門家となった。
一方で、専門とする性感染症予防や性教育の分野は、当時の日本ではまだ理解が乏しく、風当たりが強いことも少なくなかった。中学校での性教育の現場で講義をした際は、「これは言っては困る」といった制約があったという。「まさに孤軍奮闘でした。場所も機会も限られる中で、調査やボランティアを続けてきました。理解されず、もどかしい思いをしたこともあります」。それでも足を止めなかったのは、世界最高峰の現場で得た確信があったからだ。性風俗で働くCSW(コマーシャル・セックス・ワーカー)を対象にした調査でも、一切の価値判断を挟まない「ノン・ジャッジメンタル」な姿勢を貫き、質の高いデータを集めた。日本のCSWが曝されている性感染症の危険因子を明らかにしたその研究はハーバード大学でも高評価を獲得した。
2000–2001年ハーバード大学公衆衛生大学院武見国際保健講座
68歳になった現在も、職場の健康を守る産業医として現役を続ける木本さん。その傍ら、自身の患うリンパ浮腫のリハビリにサーフィンと“サーフフィットネス”を実践するなど、未知の分野にチャレンジするバイタリティも健在だ。
思うようにいかない現実に何度も直面してきた人生。しかし、どの現場でも全力を尽くし、挑戦や学びを止めなかったことで、道は世界へと繋がっていった。 「私は子どもの頃から、いろんなことに興味津々で、何でも自分でやってみたい性格なんです。誰にも相談せず、自分の責任でやれることなら、迷わず飛び込んでみる。そんな風に、興味の赴くままに動いてみることで広がる世界もあるのではないでしょうか」と語る木本さんの瞳が輝いた。
職場巡視の様子
■ 木本 絹子(きもと きぬこ) プロフィール
産業医・労働衛生コンサルタント。1982年、大阪外国語大学インド・パキスタン語学科卒業。91年、奈良県立医科大学卒業。1994年、三次救急医療で働く傍ら、大阪大学の研究生に。95年、JICAの公衆衛生専門家としてタイ王国駐在、97年、ロンドン大学衛生学熱帯医学大学院短期留学、98年、国境なき医師団としてアフリカ・マラウィ共和国エイズ予防プロジェクトに参加。2000年、ハーバード大学公衆衛生大学院留学。01年、大阪大学大学院医学系研究科にて医学博士号取得。08年、医師会認定産業医資格、14年、労働衛生コンサルタント資格を取得し、現在はOsaka Metroで定期非常勤の産業医として活動している。
(本記事は、2026年2月発行の 大阪大学NewsLetter 94号 に掲載されたものです。)