阪大StoryZ

阪大生にも、研究者にも、卒業生にも誰しも必ずある“物語”
その一小節があつまると大阪大学という壮大なドキュメンタリーを生み出します。
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楽しむこと──
そんな阪大生が描くその後の人生(ストーリー)

転職先は“女流義太夫” 江戸期から続く“和風ひとりオペラ”の奥深さ
転職先は“女流義太夫” 江戸期から続く“和風ひとりオペラ”の奥深さ

転職先は“女流義太夫” 江戸期から続く“和風ひとりオペラ”の奥深さ

竹本 越里さん(女流義太夫)

東京・日本橋。華やかなショッピングスポット・コレド室町からほど近いビジネス街の一角に、一般社団法人「義太夫協会」がある。11月下旬、演芸場「お江戸日本橋亭」には、平日昼間にもかかわらず約40人の観客が舞台に向かい、耳と目をそばだてていた。感染症対策が講じられ間引かれた客席は満席。視線の先にいるのは女流義太夫節の太夫(語り)と三味線の2人。太夫の竹本越里(こしさと)さんは大学院まで中国哲学を研究し、出版社勤務を経て30代でこの道に入った異色の経歴の持ち主だ。

「女流」起源は江戸末期

義太夫節とは浄瑠璃と呼ばれる三味線音楽の語り物の一種で、江戸時代の17世紀末、大坂(現在の大阪)で竹本義太夫が創始した。義太夫節については、現在では「文楽」の名で知られる人形浄瑠璃を思い起こすと分かりやすい。人形を使って物語を演じるが、その語りと三味線を合わせた演奏が義太夫節だ。演奏は通常、太夫1人、三味線演奏者1人で行われ、江戸期の竹本座では「曽根崎心中」などで知られる近松門左衛門の作品を上演し、大いに人気を博した。人形を使わない語りと三味線のみを「素(す)浄瑠璃」という。素浄瑠璃に「女流」が登場したのは江戸末期からで、当初は「女義太夫」「娘義太夫」と呼ばれ、系譜を現在に継いでいる。

むざんなるかな秋月の

娘深雪は身に積もる、

歎きの数の重なりて

塒失ふ目なし鳥。

杖柱とも頼みてし

浅香はもろく朝露と

消え残りたる身一つを、

さすがに捨ても縁先の、

飛石探る足元も、

危き木曽の丸木橋、

渡り苦しき風情にて、

やうやう座して手をつかへ—


この日の越里さんの演目は「生写朝顔話(しょううつしあさがおばなし) 宿屋の段」。1832(天保3)年初演、盲目の娘・深雪の悲恋の物語で、三味線は鶴澤駒治さん。再会しても、任務途中のため自らの正体を明かせない武士と、彼を想い追いかけてきた武家の娘。すれ違うもどかしさや、それぞれの気持ちの機微が、太夫の語りと三味線の音だけが小気味よく響く空間に、色鮮やかに描かれた。

始まりは文楽鑑賞

本名・松尾未知(みち)の越里さんは兵庫県宝塚市出身。子供のころから時代劇が好きで、いわゆる「ヅカ」(宝塚歌劇)は見たことがない。時代劇に登場する歌舞伎役者を通じて歌舞伎に興味を持ち、大修館書店入社時の自己紹介に何気なくそれを書いたことから、同僚に文楽鑑賞に誘われた。「最初はやっぱり歌舞伎の方がとっつきやすかったですね。役者さんが好きだったので」。義太夫節との出会いも偶然だった。以前から興味を持っていた三味線を習いたいと教室を探したところ、Webで義太夫教室を見つけ、「義太夫節を勉強すれば文楽ももっと楽しめるのでは」と思った。授業料も「お手ごろだった(笑)」。それが全ての始まりになった。

 

人と違う生き方もいいか

 義太夫教室では、「語り」「三味線」、あるいはその両方など、希望に応じて実技が受けられる。越里さんは「教室に行き始めたころはプロになる気なんて全くなかった。でも教室の1年間を終える頃には段々と面白くなってきて、続けることにしたんです」。続けたい人には個人の習い事として師匠が紹介され、竹本越若(こしわか)師匠のもとへ稽古に通ううち、プロとして義太夫節に向き合いたいという気持ちが芽生えた。「芸の道の厳しさから、師匠には反対されましたが、人と違う生き方をしてみるのもいいかなと思ったんです」と当時を振り返る。

 なぜ義太夫にはまったのか。「面白いと思うのはストーリーです。物語性があるところ。大体が悲劇なんですけど、登場人物みんなが大泣きしたり死んだり、カタルシスがある。プロにならなくても教室の修了時の発表会で一度肩衣・袴を着けて舞台に立つと、はまる人が多いですね」

 

肌で感じる師匠との差、語りの奥深さ

国立演芸場で踏んだ初舞台から、間もなく10年。今の自分の立ち位置について、「モノオペラとも呼ばれて、複数の登場人物を一人で全部できるのが義太夫の面白いところだけれど、お客さんに演じ分けが伝わらないといけない。しかも声色は使っちゃいけないんです。テクニック的な部分も一朝一夕には身につかないですね」と冷静に見つめる。この日演じた主人公の深雪についても、「盲目の声の出し方というのがあって、越若師匠は『見えない時はこう、見えてるとこう』と実演してみせてくれるんです。明らかに違いがありますが、なかなかできない。どうやっているか分からないというくらい、師匠との芸の差がすごすぎて」。特に違いを感じるのが緊張感の持続。「緊張感の中ですごく細かい操作をいろいろやる。緩急、人の切り替わり、場所の移動、季節、朝なのか昼なのか夜なのか、何を着ているのか、どういう身分なのか。ほんの少しでも師匠に追いつける日が来ることを願って稽古するしかないですね」

 

芸の道は自分との戦い

長い歴史を誇る義太夫節だが、女流の置かれた現在の状況は厳しい。越里さん自身「女流は公演回数が少なく、舞台の報酬だけで生きていくのが難しい」と認める。越里さんも、結婚した5年前まで出版社の仕事を続けていた。「仕事との両立は難しかったです。職場の理解はありましたが、稽古は仕事後の夜とか、土日曜とかに」。今は個人で編集の請負仕事をしつつ、「夫のおかげで芸に打ち込めます」と苦笑する。

芸の道を究めるのは、自分との戦いでもある。意図したことができないもどかしさ、「絶望しかない」という師匠との力量差、自らの才能への疑念……。それでも「やめたいと思ったことは全くない」と言い切る。江戸時代に義太夫節を書いた作者は当代一流の教養人。随所に漢学の素養が盛り込まれ、「阪大での時間や、出版社時代の経験も原作理解に役立っている。私の強みの一つかもしれません」と越里さん。「やっても、やっても深い」--その難しさが魅力となり、苦しくても自らをひきつけてやまない。

 大阪発祥の義太夫節。とっつきにくいかもしれないが、若い人にも知ってほしい。「まずは文楽でも、歌舞伎でも体験して、できれば女流を聴いてもらえれば」と願う。

 

● 竹本 越里(たけもと こしさと)

兵庫県宝塚市生まれ。2000年大阪大学文学部卒業、02年同大学院文学研究科修了。二見書房などで編集者として従事、08年義太夫節に出会う。09年竹本越若に師事、竹本越道に入門。11年越道の幼名越里を名乗り国立演芸場で初舞台。一般社団法人「義太夫協会」(https://www.gidayu.or.jp/)正会員。

 

(本記事の内容は、2021年2月大阪大学NewsLetterに掲載されたものです)

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