StoryZ

阪大生にも、研究者にも、卒業生にも誰しも必ずある“物語”
その一小節があつまると大阪大学という壮大なドキュメンタリーを生み出します。
それぞれのStoryをお楽しみください。


©YDB

なんとなく始めた野球が、いつしか、ずっと続けていきたいスポーツに。

−まずは改めまして、横浜DeNAベイスターズ、2024年日本一おめでとうございます!

ありがとうございます。今回の日本一は1998年以来26年ぶりの快挙。この瞬間を横浜DeNAベイスターズの一員として迎えられて、自分としてもとても嬉しいです。

−今はデータサイエンティストとしてチームを支える吉川さんですが、いつごろ野球を始められたのでしょうか?

実は小学校に入ってすぐのころは、サッカーチームに所属していたんですよ。でも父は阪神、母は巨人ファンということもあって、野球のほうが自分にとっては身近な存在でした。周囲も野球をやっている子のほうが多かったので、小学校2年生のころにサッカーから野球に転向。地元の少年野球チームに入りました。こうやって振り返ってみると、本当になんとなく始めた、という感じでしたね。

−その後もずっと野球を続けられたんですよね?

僕自身がすごく野球が上手いとか、そういうことではなかったんです。通っていた高校も、強豪ではない進学校。甲子園に行く!プロになる!という目標があったわけではありません。ただ、野球が好きで。大学に行っても続けたいなという気持ちは強くあったんです。

−大阪大学を選ばれるにあたっては、「野球」という視点も大事にされていたんでしょうか?

本当のことをいうと、現役生の時は東大に行きたいと思っていました。やっぱり大学野球の花形、東京六大学野球でプレイしたかったんですよね。でも一浪を経て東大は難しいなと思うようになって。かといって関西の強豪私大に入っても、自分の実力では一軍に入れないよなぁという感覚もあり…。阪大でなら自分も前線に立って、楽しく野球を続けられそうだと思っていた部分はありますね。


テレビで知った金融工学。「かっこいい!」が、進学の原動力に。

−専攻は基礎工学部情報科学科ということで、この選択はなぜ?

決め手になったのは、高校生の頃に見た「金融工学」にフォーカスしたテレビ番組でした。経済や金融に対して数学、つまり統計、確率論を用いてアプローチして、その動向を予測する…といった解説に、心ときめいて。単純に「かっこいいな」と。そのころからぼんやりと、金融工学を専門的に学んで、それを仕事にできればいいなと思い始めました。

−野球を仕事に、という感覚ではなかったんですね。

そうですね。野球が仕事=プロ野球選手、というイメージしかありませんでしたから。今の仕事なんて全く想像もしていませんでした。調べてみると、基礎工学部情報科学科の数理科学コースには金融工学を学べる研究室がある。野球も楽しんでできそうだ。じゃあ大阪大学に入りたい、と決めたのを覚えています。

−阪大に入学後、金融工学を実際学んでみていかがでしたか?

いや、もう、本当に難しかったです(笑)。僕は理系でありながら数学が苦手なタイプで、相当苦労はしましたね。「かっこいい」という気持ちを原動力に、意地になって勉強していたように思います。大学院に進学してようやく、ある程度知識を自分のものとして扱えるようになったなという感じでした。学業が大変だった分、野球が良いモチベーションになっていた部分もあります。

頭で野球を考える、メソッドを持つ。大学の部活で、自分の中の野球観が変化。

−野球部生活はどうでした?

「楽しめそう」と思って入ったと言いましたが、もちろん阪大の野球部もみんな真剣に野球と向き合っています。所属する近畿学生野球連盟も、ときたまプロ入りする選手もいるリーグで、レベルは低くありません。国立大学に入りながら、サークルではなく野球“部”を選んでいる仲間たちもまた、相当の野球好きで、腕に覚えのある選手ばかり。そんな環境で野球をプレイすることで、野球に対する価値観がだんだん変わっていったんです。

−いい意味で、カルチャーショックがあったのでしょうか?

そうですね。野球の新たな側面を見た気分でした。「どうやったら勝てるか」と理論立てて勝ち筋を考えている選手、自分なりの野球メソッドを持っている選手。その姿に、闇雲に頑張ったり、楽しんだりするだけが野球じゃないんだな、と感じたんです。

−そのころから、今につながるデータ分析にも挑戦されていたんですか?

当時は全然です。もちろん対戦相手がどういう球を投げてくるか、といった一般的な分析は行っていましたが、今仕事として取り組んでいる内容はまったく違う角度からの分析なので。ただ、野球を理論で考えることの大切さ、おもしろさに大学の部活で初めてふれた、ということは確かだと思います。



大学院修了後は、夢だった金融業界へ。キャリアのスタートは営業職から。

−大学院を経てメガバンクに就職されたとのことですが、金融工学を活かせる部署を志望されたのでしょうか?

金融工学の知識を活かそうと思うと、銀行などで「数理ファイナンス」を担当する部署をめざすことになります。この目標はぶれていなかったので、銀行にしぼって就職活動を展開していました。その時は、就職したらすぐに数理ファイナンスに携わって、自分の専門性を活かしたいと思っていました。でも、就職活動を進める中で、ひとつの疑問が湧いてきたんです。

−疑問というと?

就活中、数理ファイナンスを担当する社員さんたちの話を色々と聞いたのですが、数字やデータの話ばかりで人や社会との関わりが薄いな、と感じたんです。今思うと、とても生意気な感想なんですけど…。そこで、就活の方針を思い切って転換。入社後まずは現場に配属されるタイプの銀行に、就職を決めました。

−思い切った決断ですね!

結果から言うと、この決断をして本当に良かったと思っています。入社後は大阪市内の法人営業担当になりました。この時担当していたお客様のほとんどは中小企業。営業活動は本当に、「儲かりまっか」「ぼちぼちでんな」の世界です(笑)。用事があってもなくてもお客様のところに顔を出して、世間話がてらお悩みを聞いたり、提案をしたり。金融、銀行、お金というと冷たいイメージがあります。でも営業を経験したことで、金融は人の生業、社会の経済循環を支えている血の通った仕事なんだと実感できたんです。

「吉川さんに、ぴったりの仕事がある」。運命の出会いをくれた日銀出向。

−その後は、数理ファイナンスのフィールドに異動されたんですね。

「リスク統括部」という部署に配属されました。ひらたくいうと、社会や経済の動向を分析し、銀行が潰れないようにリスク管理を行うのが当時の僕の仕事。もともと扱っていた数十万、数百万という数字の単位が、この部署に配属されて数億、数十億という数字に跳ね上がり、責任の大きさを感じるようになりましたね。

−営業での経験が活きる場面も多かったのでしょうか?

大きな数字を扱っていると、その先にいる人の存在が希薄になります。でもその数字の先には、数名の従業員にお給料を払うために奮闘している町工場の社長や、中小企業の社長がいるんです。営業を経験したからこそ、その顔を忘れないように仕事をしてきました。データの先には、必ず人がいる。そんな教訓は今でも仕事の根底にあると思います。

−その後、2017年に日本銀行に出向されていますが、ここでの経験はいかがでしたか?

出向先は日本銀行の金融研究所。銀行の内側の世界しか見てこなかった僕にとって、とても刺激的な世界でした。研究所には日本銀行の行員だけでなく、大学教授やAIの専門家など、幅広いバックグラウンドを持った方々がいて。「世界ってこんなに広いんだ」「銀行員だけが仕事じゃない」。そう思い始めるようになりました。

−外の世界を見てみたいという思いが、転職への原動力になったわけですね。

思考の部分もそうですし、事実としてのきっかけも、研究所の同僚からもらったんです。ある日出社したら、隣の席の同僚が「吉川さんにぴったりの仕事の募集が出ているよ」と話しかけてきました。仲が良かったので、彼は僕の専門分野はもちろん、野球好きであることも知っていたんです。その「僕にぴったり」という職業が、横浜DeNAベイスターズのデータサイエンティストの仕事でした。


※吉川さんの部署名は取材当時の名称です。

後編 へつづく

■吉川健一(よしかわけんいち)
1987年、兵庫県神戸市生まれ。小学校低学年の頃、地元の少年野球チームに所属したことをきっかけに、野球を始める。中学〜高校と野球部に所属し、捕手や内野手などさまざまなポジションを経験。だんだんと野球の魅力の虜になり、大阪大学基礎工学部に進学後も硬式野球部に所属し、ポジションは捕手。部活と学業の両立に勤しむ4年間を送る。その後金融工学や数理ファイナンスの専門性を高めるため、大阪大学大学院基礎工学研究科に進学した。修了後はメガバンクに就職し法人営業を経てリスク管理などを担当。日本銀行に出向するなど数理ファイナンスのプロとして活躍。野球とは縁遠い日々を送っていたが、横浜DeNAベイスターズが「データサイエンティスト」という職種を募集していることを知り、好きな野球と分析のスキルをどちらも活かせる仕事だと感じ転職を決意。2018年に入団後は、R&D(Research & Development=研究開発)グループのデータサイエンティストとして選手育成を支えるデータ戦略業務に携わる。2022年からデータ戦略部の部長に就任。

本記事は、2025年3月公開のマイハンダイアプリ「まちかねっ!」より転載したものです。

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