七、年表
≪洪庵と適塾の沿革≫
寛政04年(1792) | 5月16日船場の大火。現在の建物は同年以降の建築である。(約220年前) |
文化07年(1810) | 7月14日備中足守(岡山県)に生れる。 |
文政08年(1825) | 元服。父の転勤(足守藩大坂蔵屋敷留守居役)に伴い、大坂に至る。(洪庵16歳) |
文政09年(1826) | 7月中天游の門に入る。緒方姓となる。(17歳) |
天保02年(1831) | 2月江戸に出て、蘭学者坪井信道の門に入る。(22歳) |
天保06年(1835) | 2月江戸をたち、いったん帰郷。ついで大坂に出て中天游の塾で蘭書を講じる。(26歳) |
天保07年(1836) | 2月大坂より蘭学修業のため長崎へ赴く。このとき緒方洪庵とあらためる。(27歳) |
天保09年(1838) | 1月長崎の勉学を終え、大坂に出て、瓦町に蘭学塾「適塾」を開く。7月摂津名塩(兵庫県)の億川百記の娘八重と結婚。(29歳) |
弘化02年(1845) | 12月過書町の町家(現在の適塾)を購入・移転し、大いに塾を拡張する。 |
弘化03年(1846) | 大村益次郎入門。 |
安政02年(1855) | 福澤諭吉入門。 |
文久02年(1862) | 8月5日江戸幕府奥医師に召されて、大坂をたつ。西洋医学所頭取を兼任。(53歳)養子緒方拙斎が塾生の教育に当たる。 |
文久03年(1863) | 6月10日突然多量の喀血により急死。(54歳) |
明治02年(1869) | 3月大阪府が大福寺(東区上本町4丁目)に仮病院・医学校を設立した際、洪庵の嗣子緒方惟準、義弟郁蔵、養子拙斎らがこれに参加。この医学校は、後に幾多の変遷を経て現在の大阪大学医学部となる。 |
明治34年(1901) | 洪庵の偉業をしのぶ門弟らにより「洪庵文庫」が設立される。 |
昭和15年(1940) | 7月大阪府の史跡に指定される。 |
昭和16年(1941) | 12月13日国の史跡に指定される。 |
昭和17年(1942) | 9月緒方家から国(大阪帝国大学)に寄付される。 |
昭和27年(1952) | 11月5日適塾記念会が創立される。 |
昭和39年(1964) | 5月26日建物が国の重要文化財に指定される。 |
昭和47年(1972) | 12月20日大阪大学適塾管理運営委員会が発足する。 |
昭和51年(1976) | 文化庁により解体修復工事が行われる。 |
昭和55年(1980) | 5月一般公開が開始される。 |
昭和56年(1981) | 7月適塾周辺史跡公園化事業により東側隣接地に公園が完成される。 |
昭和61年(1986) | 3月西側隣接地に公園(公開空地)が完成される。 |