令和6年度卒業式・大学院学位記授与式総長式辞(2025年3月25日)
本日、大阪大学から、新たな一歩を踏み出さんとしている皆さん。大阪大学を代表し、心からお祝い申し上げます。誠におめでとうございます。
また、この日まで勉学と研究を支えてこられたご家族の方々に衷心よりお慶びを申し上げます。
先月、ある篤志家から本学に対して、上村松園作「詠哥之図」をご寄贈いただきました。一人の女性が短冊に歌をしたためている姿を描いた絵です。上村松園は美人画の第一人者です。明治以降の近代日本画の礎を築いた画家の一人で、女性初の文化勲章を受章したことでも広く知られています。
この篤志家は、米国のイェール大学のキャンパス内のとある建物を訪れたとき、著名な画家が描いた絵画が誰でも気軽に見られるところに展示されているのをご覧になって心を打たれたそうです。そして、日本の大学でも学生が「本物」の芸術作品に触れ、「感受性」を磨いてほしいとのご意向を持たれるようになりました。
そこで、大阪大学であればこのような意向を理解してもらえるのではと考えられ、大変幸運なことに本学に対して寄贈の申し出がなされました。この絵は、今後、豊中キャンパスの総合図書館に展示します。
さて、本日はこの「感受性」の大切さについてお話します。
「Society 5.0」という言葉を皆さんは聞いたことがあるでしょう。
狩猟社会、農耕社会、工業社会、情報社会に続く新たな概念としての言葉で、Society 5.0とは、「我々が実体験している現実のフィジカル空間とコンピュータやネットワークによって構築された仮想のサイバー空間とを高度に融合させたシステムにより、経済発展と社会的課題の解決を両立する人間中心の社会」を意味します。
すでに、情報収集、コミュニケーション、エンターテイメント、ショッピング、仕事など、私たちの生活のあらゆる場面でサイバー空間が利用されています。つまり、身体は現実のフィジカル空間にありながらも、その視線の先は、ディスプレイを通してサイバー空間の中にあります。もはや日常の多くの時間をサイバー空間上で過ごしていると言えるでしょう。
3週間後に夢洲で開催される「大阪・関西万博」では、さまざまなパビリオンが、このSociety 5.0の体験の場となります。
例えば、本学のa-tuneという学生団体が主体となり、紛争や差別のない社会実現のため、言葉の違いの壁が乗り越えられる「音楽」によって、万博会場内のフェスティバル・ステーションと世界各地をインターネットによるサイバー空間上でつなげて同時演奏する、オンラインオーケストラのイベントを企画していますが、これもSociety 5.0の一つの有り様と言えます。
私は、情報科学分野の研究者という立場で、インターネット技術の発展に黎明期から関わってきました。それに携わった一人として、インターネットの劇的な技術革新によりサイバー空間が瞬く間にここまで拡張したことをとても嬉しく思います。
数年前に経験した未曽有のCOVID-19のパンデミックを克服するうえでも、人と人が直接対面することなくコミュニケーション可能なサイバー空間が極めて大きな役割を果たし、この例をはじめとして私たちのコミュニティの在り方そのものが大きく変化しています。
しかしその一方で、サイバー空間にAI技術が駆使されるようになってきた昨今、フィジカル空間、つまり、現実社会で暮らす私たちの人間の尊厳にまで浸食しようとしているのではないかと、戸惑いを覚えているのも事実です。
2024年、オックスフォード大学出版局は、いわゆる流行語大賞のように、その年の言葉として「Brain rot」という言葉を選出しました。直訳すると、「脳の腐敗」です。
この出版局は、この言葉の定義を「凡庸で取るに足らないオンラインコンテンツの過剰な視聴による精神・知的水準の低下した状態」としています。
この「Brain rot」という言葉は、170年ほど前にアメリカの思想家であるヘンリー・デイヴィッド・ソローが著した「ウォールデン 森の生活」という本に出典を見出すことができます。彼が、1845年7月4日から2年間余り、森の中で生活した体験を記した本です。
当時のアメリカは、産業革命による工業化の真っただ中で社会が大きく変革していた時期です。
特に、急速な発展で人々は伝統的なコミュニティの繋がりを失い、孤独感を強めていました。
また、奴隷制度の考え方をめぐり、南北間では深刻な社会的分断が起きていました。
西部開拓による環境破壊や工業化による自然の搾取が進んでいた時代でもあります。
翻って、現在を見てみると、Society 4.0の「情報社会」からSociety 5.0の「サイバー空間とフィジカル空間が融合する社会」への大きな変革が急速に進展している時期であり、時代の大きな変わり目という意味で、ソローが「Brain rot」という言葉を生み出した時期との類似性があります。
そしてSNSや、ここ数年、急速に脚光を浴びているAI技術は、経済システム、普通選挙に代表される民主的システム、そして平和構築のための国際秩序など、先人が努力の末に作り上げてきたシステムを根底から揺るがし、私たちは多様で複合的な課題を目の前にしています。
さまざまな情報が瞬時に手に入る。これは確かに便利なことです。
しかしその情報は、作為的な技法によって自分の興味ある情報ばかりが供給される、いわゆるフィルターバブルの中に一人ひとりが閉じ込められているだけなのかもしれません。
また、ソーシャルメディアを利用する際、自分と似た興味関心をもつユーザーをフォローする結果、意見をSNSで発信すると自分と似た意見が返ってくるというエコーチェンバー現象や、自分が信じている情報を優先的に受け入れようとする「確証バイアス」とも相まって、人々は自分と異なる意見に触れることを結果的にさらに強く拒絶していくことになります。
こうして、脳は自ら考えることを停止し、腐敗してしまい、そして感受性が麻痺してしまう事態に陥っていくのでしょうか。
その結果、情報を操る者や為政者にとっては、容易に新たな格差や深刻な分断を創り上げ、自分のほしいままに民衆を操作することができてしまいます。
本学の組織である「社会ソリューションイニシアティブ(SSI)」の教員の方々が、「やっかいな問題はみんなで解く」という本を出版しています。
この中には次のような言葉があります。
「やっかいな(Wicked)という言葉の原義にふたたび立ち戻ってみれば、問題に気づきながら見なかったことにして脇に退けたり、解けたことにして済ませてしまうような態度こそが、倫理的な悪を生み出しているということになる。問題それ自体が邪悪だというよりは、それに向き合い関わろうとする姿勢こそが、問われているのだ。」
という言葉です。
大阪大学で幅広い学びを修めた皆さんが、これから先、「Brain rot」の危険性を孕んでいる社会の中で、どのようにしてやっかいな問題を解決するべきなのでしょうか。
その過程で留意しなければならないのは、たとえどのような共通の事象であっても、それに対して一人ひとりが異なる価値観や感情を持っているということです。
サイバー空間上にあふれる情報やAI技術は、あなたに対して、もっともらしい答えを指し示してくれることでしょう。
しかし、そこに違和感があった時、一度立ち止まって、その違和感の正体をじっくりと探ってみる。この余裕と覚悟が皆さんには必要です。
今までの社会はなにもかもが急ぎ過ぎていた。私はそう思います。
資本主義の波の中で、皆が皆、無限と信じた資源で科学技術を発展させ、同じ格好をすることが推奨され、そして、社会から逸脱することを極度に恐れていた。
信号機の青信号を、私の年代の世代は「ひたすらに進め」と思い込んでいた。
しかし、青信号の本当の意味は「進んでも良い」です。進まなければならない義務はないのです。
だから、あなたたちは、歩くスピードも、歩幅も、進む方向も一人ひとり違っていいのです。
そうして、元々違った意見をもった人達が集まって、問題を解決しようとする時、とにかく早く結果を出そうとすることを第一義にするのではなく、何故、相手の考えと相違が生じるのかじっくり向き合うことが必要です。
「かくあるべき」という古いバイアスも、一度は疑ってみていいのです。
そして、あなたが、それらを判断するにあたり、あなたの大切な領域までをも、インターネットや、SNS、AIに委ねてしまわないようにしてください。
自分の尊厳を絶対に守り抜き、そのあなたの大切なアナログ領域にある、感受性を研ぎ澄ましてほしいと強く願います。
詩人の茨木のり子さんが書いた「自分の感受性くらい」という詩をご存知でしょうか。
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
とても強い言葉が並んでいます。戦後、街も建物も価値観すらをも徹底的に破壊された中で青春時代を過ごした茨木さんだからこその詩です。
「自分の感受性くらい、自分で守れ、ばかものよ」
この厳しくも愛を感じられる言葉が、今日ここから歩き始めるあなたの、何よりの道しるべになってくれればと願います。
今日、皆さんの卒業を見届ける私も、実は、長い大学人生を卒業します。
したがって、今お話ししているのは大阪大学総長という立場から皆さんに伝える最後の祝辞でもあります。
大阪大学で学びを修めたあなた方は、サイバー空間がさらに拡大し、AI技術もますます進化する中であっても、それらの技術にあなた方の大切な感受性まで預けてはいけない。
むしろあなた方は、科学や技術を使いこなして、社会の多様で複合的な課題と対峙してもらいたい。
科学も技術も、今後、急速な速さで確実に発展していきます。
その発展のスピードを直視しつつも、あなたはあなたの人間らしさを大切にして、デジタルデータ化できない人間として感受性豊かな存在であってほしい。
冒頭で述べた篤志家が、本学の学生達に「本物」の芸術作品に触れ、「感受性」を磨いてほしいと願われたように、私も皆さんが、芸術作品のみならず、例えば、言葉に表現しようもない程の自然界の絶景に遭遇し心を震わせたり、さらには、あの人のようになりたいと「ときめき」を感じる人と出会ったり、幅広くさまざまな事象や人々と直に触れあうことで、豊かな「感受性」を育んでほしいと願っています。
それが、私からの最後のお願いでもあります。
君たちの、今、ここから始まる新しい一歩に、大きな期待をしています。
そして、多くの幸せが皆さんに降り注ぎますように。
本日は、卒業・修了、本当におめでとう。
令和7年3月25日
大阪大学総長
西尾 章治郎
■式辞全文PDFはこちら