令和5年度卒業式・大学院学位記授与式総長式辞(2024年3月25日)

 本日、大阪大学から、新たな一歩を踏み出さんとしている皆さん。大阪大学を代表し、心からお祝い申し上げます。誠におめでとうございます。
 また、この日まで勉学と研究を支えてこられたご家族の方々には、衷心よりお慶び申し上げます。

 本日は、特に大きな感慨をもって皆さんを拝見しています。
 ここにいる多くの学部卒業生の皆さんが入学した4年前、世界はパンデミックによる混乱の最中でした。
 試しに、2020年3月25日の新聞を見ると、「東京オリンピック延期決定」という記事が大きく掲載されていました。入学式も開催できず、その数日後には緊急事態宣言が発表され、大学への登校さえも禁止しなければならない。そんな時期でした。
 その後、驚くべき速さでワクチンが開発されるなど、パンデミックは一定の収束を迎え、街には随分と活気が戻りました。「レジリエンス」という言葉が示すとおり、大きな混乱を受けても、社会システムは「元に戻ろう」とする強靭でしなやかな力を持っていることを証明しました。
 皆さんも学生生活の後半は、当初に思い描いていたとおりではないかもしれませんが、それぞれの青春を謳歌できたのではないでしょうか。激動の大学生活を送り、学業を成し得て、今日、精悍な顔つきでここに集っている皆さんのことを、私は大変頼もしく、そして誇りに思います。

 さて、本日は、これからの社会を創り上げていく皆さんが、本学で習得した物事の捉え方のなかで、是非とも大切にしていただきたい「ネガティブ・ケイパビリティ」についてお話したいと思います。

【AI技術の台頭とその功罪】

 近年、パンデミックに限らず、気候変動、飢餓、資源の枯渇、高齢化などの多様で深刻な課題に、私たちは直面しています。また、各地で発生している軍事衝突や地政学的リスクも無視できません。
 そのような中でも、AI(人工知能)技術の台頭は、人類史上、大きな転換点となるトピックといえるでしょう。
 ChatGPTをはじめとする生成AIは、あたかも私たちと対話をしているかのように、問いに対して迅速に回答を示してくれます。私たちのオーダーに基づいた文章も、インターネット上のあらゆる情報から瞬時に作成してくれます。
 皆さんはそのメカニズムをご存じでしょうか。生成AIは、人間の神経細胞の仕組みを再現したニューラルネットワークを用いた機械学習の手法の一つであるディープラーニング(深層学習)によって文章をパターン化し、頻出確率の高い単語を並べて文章化していきます。つまり、その回答は、標準偏差で言うところの中央値に出てくる「もっともらしい」単語の羅列にすぎません。
 また、ブラウザ検索やSNSにもAIが搭載されており、サジェスト機能やリコメンド機能は、閲覧者が興味を示しそうな情報を優先的かつ継続的に提示します。そのプロセスでは、閉鎖的なコミュニティが形成され、陰謀論や真偽の不確かな情報、つまり、フェイク情報があったとしても、多くのユーザーが無意識のうちにそれらをあたかも信憑性ある重要情報として信じて疑わない状況に陥ってしまう場合があります。
 さらには、AIがもたらした軍事技術が凄惨な状況を世界各地に生み出し、AIが作成したフェイク画像が選挙戦の結果を左右する時代です。

 昨年5月、アメリカの情報科学者、AI開発者ら約350名は、「AIによる人類滅亡のリスクを軽減することは、パンデミックや核戦争などと同様に世界的な優先課題である」との懸念を示す声明を出しました。衝撃的ではありますが、核心をついている声明です。

 しかしながら、AIは私たちの生活、ビジネス、社会全体にすでに無くてはならない存在となっています。また、その進化が私たちの生活を便利にし、より豊かな社会へと導いてくれることは疑う余地はないでしょう。
 だとすれば、私たちはAIを拒絶し過ぎることなく、しかし、AIに迎合し過ぎることもなく、人間とAIとがうまく共存する道筋を早急に見出さなければなりません。
 かつて人工知能研究の世界的権威であるレイ・カーツワイル博士が、2045年にAIが人間の知性を大幅に凌駕する時点、いわゆるシンギュラリティを迎えることを唱えたのは有名です。しかし、想像をはるかに超えるスピードで技術は進歩し、最近では「万能AI」の開発計画が進み、シンギュラリティは数年後に迫っているという論調すら出てきています。 
 私たちは、以前から言われている「情報リテラシ―」などというよりも、もっと深く、もっと私たちに近い場所で、AIとの関係性を認識し、共存関係を構築していかなければならない、そんな時代に居るのです。

【今こそ求められるネガティブ・ケイパビリティ】

 このような混迷する社会を生き抜いていくための一つの考え方として、精神科医で作家の帚木蓬生さんは約200年前に提唱された「ネガティブ・ケイパビリティ」という概念を日本に紹介しています。
 ネガティブ・ケイパビリティ。これは「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える力」、あるいは「性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さを感じつつ、また、疑う気持ちを持ちつつも過ごしていく力」を意味します。
 不確実性の高いこの社会を生きる私たちは、「早く答えを知りたい。問題を解決したい」という「ポジティブ・ケイパビリティ」が特に強く働き、AIからの情報提供を求めたり、明確な回答を示してくれる人に判断を頼ってしまうことがあります。
 しかし、その対極にある「ネガティブ・ケイパビリティ」の概念を知っておくと、挫けず持ち堪える力が身につき、一見、消極的に見えても、その先には必ず発展的で思慮深い考え方や解決の道に行き着きます。

 たとえば、1月1日に発生した能登半島での地震。3か月が経とうとしている今も、多くの被災者が辛い避難生活を送っておられます。
 その震災から10日ほど経過したときのニュースの光景がとても印象的でした。
 それは、避難所の小学生が自主的に食料配布の手伝いを始めたという報道でした。
 その少年にインタビュアーが「今一番、何がしたいですか?」と問いかけたところ、屈託のない笑顔で「ユニバーサル・スタジオ・ジャパンに行きたい!」と答えたのです。私はやや戸惑いました。「温かいお風呂に入りたい」や「自分の家に戻りたい」といった、私がイメージした答えではなかったからです。
 しかし、日常を一瞬にして奪った巨大地震という事実を、この少年は幼い心で必死に受け止めようとして生きている途中なのだと理解し、いたたまれない気持ちになりました。
 この少年に対して、「こんな時に何を言っているの!」と言うことは、あまりにもむなしく空回りする言葉になります。
 私たちがその少年にしてあげられることは、表情や言葉の奥にある心の動きを受け止めたうえで、やがて踏み出す彼の確実な一歩を支えてあげることでしょう。その時のために寄り添って、一緒にじっくりと考える力。それこそがネガティブ・ケイパビリティと言えるのかもしれません。
 この震災をはじめ、今、絶望の淵にいる人々は、即座の解決策を求めているばかりではありません。それよりも、とにかく、この理不尽な状況を誰かと分かち合いたいと願う。そしてそれを見守る人々も、その人の隣で、優しく肩に手を当て、息遣いを共有したいと想う。
 ここに、AIには到底持ちえない、人間の尊厳があると私は信じたいのです。

 私たちが日常に抱く葛藤や苦悩、驚きや恐怖、喜びや願望、これら言語表現では簡単に言い表せない、攪拌されたアナログ状態の感情。
 AIがこの神聖な領域にまで即座に入り込み、「今のあなたは、このような感情ですね」と示したり、「あなたのその悩みの解決方法はこちらですよ」と一見、模範的な、あるいは恣意的なデジタルの回答を示したりしたとき、私たちは、人間として、強い違和感を抱き、そのような介入を許すべきではありません。

【この力を存分に活かして】

 皆さんは大阪大学で「専門性」を修得しました。これからの時代、皆さんがフェイクニュースや同調圧力に負けない世の中の「事実」を見抜くための強靭な判断基準として、その専門性は皆さんの強みとなるでしょう。
 皆さんは大阪大学で「教養」を身に付けました。このような社会の状況下で、あなたの言葉で「事実」を伝え、そこから次の最善策を考えるにあたって、その教養は、しなやかに力強く、周囲との良好な関係性を構築してくれるはずです。
 私たち大阪大学の教職員は、皆さんがこれからの社会を生き抜く術を身に付けるべく、全力を傾けてきました。
 ですから、皆さんは、AIや人類の尊厳を脅かす技術を適切にコントロールし、従前のイデオロギーや、そこから脱却できないでいる人々に屈することなく、目の前にある本質に迫るネガティブ・ケイパビリティを自分自身が有していることに自信を持ってください。
 そして、その力を存分に活かして、できるところから一歩ずつ社会を変える。
 これはとても大きな使命のように思うかもしれません。しかし、あなたとその隣の人にEmpathy(共感)が生まれれば、それが大きな原動力となり、必ず社会を望ましい方向へと変えることができます。

【皆さんへの歓送のことば】

 最後に、詩人で批評家でもある若松英輔さんの「祈願」という詩を贈ります。

  多くの人と
  知りあうより
  出会うべき
  ひとりの人に
  めぐりあえますように

  たくさんの
  ではなく
  ほんとうに
  なくてはならないものを
  愛しめますように

  大きなことを
  成し遂げるよりも
  なすべき 何かに
  わが身を賭すことが
  できますように

  きらびやかな
  文章ではなく
  人生の一語を
  自分の手で
  つむぎだせますように

  わたし自身よりも
  わたしに
  近いところにいる
  見えないあなたに
  届きますように ※1

 この詩には、これからを生きる皆さんにとって、肩の力を抜くための大切な言葉が詰まっています。
 焦りや気負いは禁物です。誰かが口にする一見正しいと思える主張に合わせる必要もありません。じっくり吟味しつつ、隣人との共感を大切にしながら、穏やかに確実に進んでいけば良いのです。
 残念ながら、現在の社会は混沌としていると言えるでしょう。私たちは知恵を振り絞って、一人ひとりが生きがいを育む社会を構築することを目指さねばなりません。
 そんな社会を創り上げていく中心となる皆さんに、惜しみない祝福と大きな期待、そして輝かしい未来を託して、私の式辞といたします。
 皆さん、本日は本当におめでとうございます。


令和6年3月25日
大阪大学総長
西尾 章治郎

■式辞全文PDFは こちら

(※1は、若松英輔「詩集 美しいとき」(亜紀書房、2022年)から引用いたしました。)

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