大阪大学の歴史

大阪大学は我が国第6番目の帝国大学として1931年に創設されました。しかし、大阪大学の原点は緒方洪庵が1838年に設立した適塾に見いだすことができます。緒方洪庵の弟子や息子を中心として明治新政府により1869年に設立された大阪仮病院や大阪医学校が幾多の変遷を経て、1931年に医学部と理学部の2学部からなる大阪帝国大学が創設されました。司馬遼太郎が長編歴史小説 『花神』の冒頭に「『適塾』という、むかし大坂の北船場にあった蘭医学の私塾が、因縁からいえば国立大阪大学の前身ということになっている」と記しています。大阪大学には緒方洪庵の「人のため、世のため、道のため」という精神と大阪府民の学問への思いが受け継がれています。大阪大学は2011年に創立80周年を迎えましたが、2013年には適塾創設175周年という阪大の歴史の中で大きな節目の年を迎えました。創基以来175年に及ぶ阪大の歴史をたどってみましょう。

大阪大学の歴史

1838年 適塾  ー大阪大学の原点「適塾」創設ー

大阪大学の歴史

1931年に創設された大阪大学。その原点となるのが「適塾」です。適塾は、備中足守藩(現岡山市北区足守)出身の緒方洪庵が江戸や長崎で蘭学・医学を修行後、1838(天保9)年、大坂・瓦町に医院とともに開いた私塾。7年後、いまも建物が残る過書町(現中央区北浜3)に移転し、計24年にわたって種痘法やコレラ治療法の研究を進めました。1846年に設立された除痘館は1858年には江戸幕府が公認した最初の種痘所となりました。適塾からは、福沢諭吉、大村益次郎、長与専斎、大鳥圭介、佐野常民、橋本左内などをはじめ明治を切り開いた1,000人近い塾生が育ちました。 1869年に明治新政府は、洪庵の二男・惟準(これよし)や洪庵の弟子達、およびオランダ人教師・ボードウィンを迎えて大阪仮病院と大阪医学校を開設しました。大阪医学校は幾多の変遷を経て1915年に大阪府立医科大学になり、大阪帝国大学医学部へと発展していきました。





1931年 大阪帝国大学の誕生 - 悲願の大阪で、日本6番目の帝国大学

大阪大学の歴史

大阪帝国大学は、1931年大阪府立医科大学を母体に医学部と理学部の2学部から構成されました。初代総長は世界的な物理学研究者の長岡半太郎です。長岡は「阪大を日本一の大学にする為教授陣には私の力の限り新鋭をすぐって集まっていただいた。そして研究第一主義、殊に産業科学の研究に力を入れる機運を作った」と述べています。また「糟粕を嘗むる勿れ」という言葉を残しています。帝国大学は、国の施策により、日本の最上位の国立高等教育機関および研究機関として設置されていました。 当時、東京をしのぐ大都市であった大阪に「総合大学を」という声が民間からあがりました。当時の大阪府立医科大学長の楠本長三郎(第2代総長)や大阪府知事柴田善三郎を始め、関西財界や府民の熱意ある活動の末、悲願の「大阪帝国大学」が誕生したのです。大阪帝国大学は、帝国大学でありながら民間の意思と財源により創設された帝国大学でした 。大阪帝国大学の誕生には大阪医科大学の事務官西尾幾治の悲願達成にむけた多大な努力があったことも特筆すべきことです。1896年に大阪工業学校として設立された歴史ある大阪工業大学が1933年に工学部として加わり、医学、理学、工学の理科系帝国大学として本格的にスタートを切りました。その後、微生物研究所や産業科学研究所が民間からの寄付等により設立されました。

大阪大学の歴史

大阪工業学校について

大阪工業学校は東京工業学校(設立時は東京職工学校)に続く全国で2番目の官立工業学校として北区玉江町に1896年に設立されました。大阪工業学校の校舎があった付近には、江戸期の錦絵や名所図会にも描かれた「蛸の松」がありました。大阪工業学校は、当時「東洋のマンチェスター」として栄えていた大阪の産業発展に大きく貢献しました。また全国で唯一の存在であった醸造科には全国の清酒、醤油の醸造業者の子弟が学び、醸造業の近代化に貢献しました。1929年には東京高等工業学校とともに大学昇格をはたし、官立工業大学である大阪工業大学となりました。続いて大阪工業大学は33年に大阪帝国大学工学部となりますが、同学部は当初、機械工学、応用化学、醸造学、冶金学、造船学、電気工学、応用理学の7学科26講座から構成されていました。

大阪大学の歴史

1949年 大阪大学へ ー新制大阪大学へ

大阪大学の歴史

大阪高等学校、浪速高等学校を合併し、文学部・法経学部・理学部・医学部・工学部の5学部と一般教養部からなる新制大阪大学へ。 懐徳堂の蔵書が懐徳堂記念会より文学部へ寄贈され、充実された文系学部の基盤が作られました。

大阪高等学校、浪速高等学校について

大阪高等学校(1921年、大阪天王寺に設立)は第一次世界大戦後の人材養成の必要性が課題となっていた事情を背景に官立の旧制高等学校として設立されました。修業年限は3年で、理科丙類(フランス語)を有するのは同時創設の東京高等学校と大阪高等学校だけでした。 また、浪速高等学校(1926年、大阪豊中に設立)は府立大阪医科大学予科を発展的に解消して設立された大阪府立の旧制高等学校であり、尋常科4年を含む7年制でした。 ともに1950年に廃校となり、新制大阪大学に包括され、それぞれ、一般教養部南校、一般教養部北校となりました。

懐徳堂について

懐徳堂は1724(享保9)年、大坂の尼崎町(現中央区今橋)に創立された町人による町人のための学問所。大店の主人から使用人まで多くの人々が聴講。漢字・和学・詩文といった多彩な講義内容と、商用による途中退席を認める自由な学風があり、150年近くも西日本の学問の中心として栄えました。 戦前まで誰もが水準の高い学問を学べる場として親しまれましたが、戦災で講堂は焼失。戦後、本学に新しく法文学部が加わる際に、戦火を免れた蔵書類が「懐徳堂文庫」として寄贈されたことにより、大坂の町に息づいたこの独創的な学問と思想・文化を継承することとなったのです。大阪大学の文系学部の精神的源流と位置づけられています







2007年 大阪外国語大学と統合

大阪大学の歴史

2007年10月1日、大阪大学と大阪外国語大学が統合して、新たな大阪大学が誕生しました。大阪外国語大学は、1921(大正10)年に、大阪上本町の地に大阪外国語学校として創立され、以後、外国語教育・研究の西の雄として大きく発展するとともに、司馬遼太郎などの著名な卒業生を輩出してきました。大阪外国語学校の設立には、大阪の実業家・林蝶子女史の「大阪に国際人を育てる学校を」という熱意と篤志の下、私財を政府に寄附して実現したという経緯があります。その点で大阪帝国大学の設立と極めて似通ったいきさつがあります。両大学が統合して北摂の地に3つのキャンパスを持つ日本有数の国立大学が誕生しました。




現在 研究型総合大学へ成長 ー引き継がれる精神

その後、大阪大学は次々と新しくユニークな学部・大学院・研究所などを整備し、現在は、吹田・豊中・箕面キャンパスをもち、11学部、15研究科、6附置研究所を擁する我が国屈指の研究型総合大学となりました。 大阪大学が理系、文系を問わず、全国に先駆けた学部・研究科や研究所などの創設を実現してこられたのは、大阪大学の自由と進取の精神と、時代の要請に応えるという熱意が基軸となっているからです。長岡半太郎初代総長の「糟粕を嘗むる勿れ」、第6代総長正田健次郎の基礎工学部創設の理念でもある「科学と技術の融合により真の文化を創造する」、第11代総長山村雄一の「地域に生き世界に伸びる」という理念や精神は大阪大学に受け継がれています。


江戸時代から引き継がれる精神。学びの本質。大阪大学の考える「知の本質」とは。

大阪大学の原点である緒方洪庵の「適塾」や、大坂の町人文化の象徴「懐徳堂」を引き継いだ大阪大学の「理念」とは?、そして大阪大学の考える「知の本質」とは?トップページを手掛かりに探してみてください。

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