六、適塾とその周辺


六、適塾とその周辺

適塾の西隣には大阪でもっとも早く開設された愛珠幼稚園がある。もとは銅座であって、裏側は同時にオランダ屋敷と呼ばれた外国人の専用宿であったが、当時の遺構が遺されている。また、二丁ほど南に下がるとそこは薬の街として全国にその名を知られる道修町がある。 大正4年頃には市街の整備の一環として道路の拡張が行われ、適塾の表側が2mほどきりつめられた。世にいう軒切りである。現在の形はそのときの大きさである。その後各所に痛みが目立つことから、昭和51年から5年を掛けて解体修理を行い、できるだけ洪庵の時代の適塾に復元することにつとめた。

適塾周辺の歴史ある多くの建物の改築が進むなか、適塾周辺を史跡公園として整備をすすめることとなり、適塾の東西には緑地公園が設けられ、修景、防災上からも整備された。現在では西側の緑地には読書にふける洪庵の青銅の像が置かれている。

適塾の南通り一本隔てて除痘館があった跡を示すレリーフが緒方ビルの北面に埋め込まれている。御堂筋に面した日生ビルの南壁には大坂町人の設立した学問所であった懐徳堂の跡を示す碑がある (地図参照) 。なお、適塾の周辺は先の大戦時にも火災に遭わず、江戸~明治の建物がもっとも多く遺されている地区で、中之島公園には明治期の洋風建築である中之島公会堂があり、淀屋橋にある日本銀行の大阪支店の建物も明治時代の洋風建築の実際を伝える建物である。

道修町界隈には江戸時代の建物もあり、今もそこに住まわれ薬業を続けられている。そのなかで、堺筋の東側にある黒塗りの大きな屋敷は小西家の建物で、建物は明治時代であるが、かっての大商家の雰囲気を伝えている。

道修町には、薬の神様である日本の少彦名命と中国の神農を祀る少彦名神社があり、「くすりの道修町資料館」が開設されていて、江戸時代から今日にいたる大阪の薬業の史料をもとにくすりの歩みを学ぶことができる。



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