岸田 文夫さん(1987年工学研究科修了)
▲ まち協代表としてシンポジウムなどにも登壇します(左から2人目)
/////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////
工学研究科出身で、竹中工務店の執行役員、岸田 文夫さん(61)は、在勤の大半を都市計画業務で過ごし、子どものころからの夢である大阪の街づくりに本業として貢献してきました。その一方、大阪大学中之島センターも加盟する「一般社団法人中之島まちみらい協議会(まち協)」の発足時からのメンバーとしても中心的な役割を担い、さらに来年の「大阪・関西万博」と連動する「中之島パビリオンフェスティバル」にも深く関わっています。「万博にやってくる国内外の人たちに中之島にも立ち寄ってもらい、よしもと・たこ焼き・タイガースだけでない大阪の魅力を知ってほしい」と、さらなる夢の実現を描いています。
////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////
子どものころからの夢へ、学生時代は製図室で寝泊まり
大阪市福島区野田の戦争被災から免れた木造長屋密集地区で生まれ育った岸田さんは、小学校時代に建設が始まった超高層「中之島センタービル」がどんどん空を目指して建っていく姿にワクワクし、「大阪の街をつくりたい」という思いを強くしました。府立大手前高校から阪大工学部環境工学科に入学。昭和40年代の公害問題を踏まえて設置された学科でしたが、「都市の過密、交通問題、生活環境などについて学びたい」と選んだ進路でした。
受験期から英語が大の苦手で、当時は工学部の2次試験に英語科目がなかったこともラッキー。入学後も英語をコマ数の少ない第2外国語とし、未知のフランス語を第1外国語にするほどでしたが、この選択にも大いに苦戦しました。今も海外出張で英会話に手こずります。
専門分野では設計製図が大好きで、製図室の本棚の間に寝袋を置いて泊まり込みを続けながら図面を描いていました。おそらく年間200泊以上。素質と努力の甲斐あって、ほぼすべての課題で最優秀の評価を受け、長らくお手本に使われました。
何人もの恩師に恵まれ、特に鳴海 邦碩助教授(在学中、教授に昇任)には最もお世話になりました。ゼミでは禅問答のような応答がありましたし、言葉数が少ない方だったので、長い沈黙の時間が恐ろしかったものの、物事の本質をじっくり考える姿勢を学ばせてもらいました。お酒もお好きで、そこでも自分自身の考えを話すよう求められることが多かったです。
▲ 写真左=泊まり込みをしながら製図に没頭しました(左端) / 写真右=修士課程2年の忘年会で恩師・鳴海先生を囲む岸田さん(右端)
ユースホステル部活動で、食パン1日1枚の生活も
サークルは、ユースホステル部に所属。中学生を連れてユースホステルに宿泊しながら、ハイキング、自炊、キャンプファイヤーなどを体験してもらう活動が主で、自身も他大学と交流したり、信州のユースホステルでヘルパーとして住み込みボランティアを続けたりしました。とにかくお金がなくて、アルバイトで旅行資金を貯めるために、6枚切り食パンにマヨネーズをぬるだけの食事で6日間(1日パン1枚)過ごしたこともありました。
▲ ユースホステルでヘルパーをする岸田さん(後列左から2人目)=2回生の夏休みに
竹中工務店で中之島、御堂筋、難波、うめきたなど開発
工学研究科環境工学専攻修士課程を経て1987年、竹中工務店に入社。「『ゼネコンの超難関・竹中』というより、都市開発を担う部署があって大阪ビジネスパークや中之島西部地区開発をしていた会社に憧れた」と振り返ります。
入社翌年の88年には、志望の開発計画本部(大阪)に着任し、以来大半をこの本部に席を置いて、中之島、御堂筋、難波、天王寺、うめきた、堂島、尼崎、鶴橋、りんくうタウン等のプロジェクトを担当しました。2016年に開発計画本部長(西日本担当)、20~23年に開発計画本部長として東京勤務をし、22年に執行役員本部長となって、23年から大阪に戻り執行役員(都市開発、まちづくり担当)を務めています。94~96年にはフィレンツェ大学建築学部に留学(イタリア政府給費)した経歴も持ちます。
▲ 社会人1年生の設計部では大阪市立科学館の模型を作製しました
「水の都大阪」「ご来光カフェ」「北浜テラス」
プロボノ活動も、岸田さんの人生の重要な軌跡になっています。02年に政府の都市再生施策に「水の都大阪」が採択され、シンボルイベント(水都大阪2009)に向けて様々な動きが始まりました。「中之島での活性化のムーブメントをさらに盛り上げよう」と、まちづくりNPOの仲間と06年から実施したのが「ご来光カフェ」です。淀屋橋の橋の上から東を望むとビル群の間に生駒山が見え、ここからご来光が見られる期間があることを発見。淀屋橋の船着き場で、ご来光を見ながら珈琲が飲める水上カフェを企画・運営し、現在も続いています。
「北浜テラス」は、川に背を向けている川沿いの建物が川に向かってテラスを出す構想で、2つのNPOが連携して07年から企画。1軒1軒ドアノックして呼びかけ、門前払いもありましたが、3店舗の参加を得て社会実験を行いました。その後、規制緩和を受けて設置ルールを定め、現在では約20店舗がテラスを設置しています。
▲秋の1週間、美しい朝日が臨めるご来光カフェ
まち協、パビリオンフェスティバル軸に「水辺の街」宣言へ
岸田さんの活動の中心になっているのが、地権者企業28社で構成する中之島まちみらい協議会。前身の「中之島西部地区開発協議会」が87年に設立され、岸田さんは早期からこの運営に携わり、04年に中之島まちみらい協議会が発足。「中之島のまちづくり理念」を策定しました。岸田さんは15年から9年間、代表幹事を務め、今年6月に理事に就任。まさに「まち協」とともに歩んできました。
中之島は、江戸時代の各藩の蔵屋敷が建ち並び、全国からの物品の流通を支える物流センター、米市場という金融センター、そして全国の人と情報が集まる情報センターでした。それが中之島のポテンシャルだったのですが、同時に蔵屋敷に由来する敷地スケールの巨大さが都市としての成長を阻害してきた側面もあります。しかし、長年の懸案であった大阪中之島美術館が一昨年オープンし、今年は未来医療国際拠点(中之島クロス)がオープンするなど、中之島がさらに飛躍発展する予兆が見えます。
そして来年には大阪・関西万博が開幕。これを大きなステップにして「中之島宣言」を国内外に発信し、「川にかこまれた中之島ならではの水辺の街の魅力を多くの来訪者に知ってもらいたい」と期待を込めます。
▲まち協が09年に作成した中之島の将来構想
阪大・中之島センターにも期待、「学生で賑わせてほしい」
大阪大学も、昨年リニューアルした中之島センターを拠点に、「まち協」「パビリオンフェスティバル」の中心メンバーとして活動しています。岸田さんは「大阪の弱点は、都心に学生がほとんどいないこと。阪大には、学生がもっともっと都心に集まるような展開を進めてほしい」と。そして後輩たちに「私は、生まれ育った大阪を良くしたいという想いで都市開発に全力を注いできました。都市開発には長い時間がかかりますが、小さな行動の積み重ねが大きな変化を生みます。学生の皆さんには、地道な日々であっても明るい未来につながっていると信じてもらいたい」とエールを送ります。