小堂光梨さん(2020年3月文学部卒業、元応援団長)
▲NHK名古屋放送局内で機材を操作する
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昨春の卒業と同時にNHK放送局に入局した小堂光梨(こどう ひかり)さんは、初めての地の名古屋放送局でディレクターとして企画、取材、編集、放送など幅広い番組制作にかかわっています。学生時代に専攻した日本学研究で地道に調査・聞き取りにあたった学業と、チアガール、応援団長として飛びはねていた青春の輝きを貴重な経験として、「阪大の一流の環境で学べたことが、財産となっています」と語ります。
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間口が広く、面白そうな研究ができる
東京都出身ですが、姉が関西の大学に進学していたうえに「関西がなんとなく楽しそう。一人暮らしもしてみたい」との思いから、大阪大学を視野にいれました。文学部の研究室に「日本学」を見つけ、間口が広そうで先輩の卒論テーマも面白そうなことに魅せられ、進路が決まりました。
大学での勉強を通じて「貧困問題」に目を向けました。「子ども食堂」の取材を重ねたことがありました。そこでは他に、「不登校」「いじめ」「身体的障害」「うつ症状」など、さまざまなことを見聞きし、さらにそのすべてに「家族」が関わっているのではないかと感じて、方向転換することになりました。そして教授の指導のもと「家族」の切り口に「里親制度」を選んで、実際に里親も紹介してもらいました。いろんな方面から話を聞くうち、血のつながりにこだわっていた小堂さんに、ある里親が「誰と血がつながっている、つながっていない。そのことが、そんなに重要ですか?」と切り返してきました。「里親制度というのは単なる後ろ向きのセーフティネットではないんだ」と、自分の思慮の甘さを思い知らされました。もっと深い背景から親と子の関係、問題を見つめなければならなかったのです。
チアも、吹奏も、応援団長も
学生時代にはもう一つの柱がありました。中高一貫校で活動していた創作ダンスの影響もあって、入学後すぐ応援団に入部しました。リーダー部、吹奏部、チアリーダー部で構成されていますが、部員が少ないこともあって、あこがれのチアだけをやっているわけにはいきません。吹奏部を兼任していた当時は、団全体でも9人しかいませんでした。吹奏演奏したあと、パンツスーツ姿でエールを切る掛け持ちもこなしました。そして、それまで一度も責任者のような役目を担ったことがなかったのに、約20人を束ねる団長にも就任しました。
「観客席から少人数でしか応援できていないのに、プレイする選手たちの励みになっているのだろうか」と不安になったこともありましたが、ある日部室にはがきが届きました。「熱い応援に心を打たれ、筆をとりました」と記してあり、大きな勇気をもらえた思いでした。
▲引退直後にチアリーダー姿で同期と記念写真(中央が小堂さん)
聞きたかった「フレー、フレー、小堂!」
最後の晴れ舞台は、九州大学で行われた七大戦の各校演舞でした。小堂さんはチアリーダーとして舞ったあと、早着替えではかま装束となり、団長として見事なエールを切ることができたのでした。大きな自信となりました。
ただ昨春はコロナ禍のために、卒業式が見送りとなってしまったこと。式典終了後に大阪城ホール外で慣例として、後輩たちから卒業生一人一人に「フレー、フレー、小堂!」とエールを切ってもらえていたのです。その後輩との交流を思い出として残せなかったことが、今もとても残念です。
▲七大戦での引退の舞台で、団長としてはかま姿でエールを切った
1本の番組制作に1~2か月
さて今は、5分間のリポートに1~2か月も費やしながら、密度の濃い番組作りに追われています。これまで、介護現場、病院内ラジオ、在日ミャンマー人グループなどを取材・報道してきました。充実感に包まれますが、深い挫折を味わったこともありました。ある店の店主を取材対象とし、何度も通って心も通じ合うようなつもりになっていたのに、いざ撮影をお願いすると、ことごとく断られてしまいました。先輩から「取材先になってもらうことと、友達になることは違うんだ」と諭され、自分が取材者として信頼されていなかったことを痛感しました。まだ、この信頼作りには自分なりの答えが出せていません。
▲コロナ下の緊急事態宣言に合わせて、公園のバーベキュー場封鎖作業を取材する小堂さん(左)
信頼関係を築く難しさに立ち向かい
でも将来の大きな夢があります。学生時代からこだわっていた「家族」をテーマとしたドキュメンタリーを制作したいのです。取材では、多様なプライバシーにも踏み込まざるをえないでしょう。そのための「信頼」をどう培っていくか。「いつかきっと、完成させたいです」。悩みながら立ち向かっていきます。そのために、阪大でのフィールドワークで培った研究姿勢が財産となります。応援団で身に付けた「想定外のことがあっても、なんとか乗り切れるもんだ」という楽観性も生かせるでしょう。
先生方も研究資料も、すばらしかった
下宿近くにあった石橋商店街の街並みを、今もときおり思い出します。「あのおいしくて、安くて、ボリュームたっぷりだった洋食屋さんが懐かしい。もう一度関西に戻りたいですね」と振り返ります。
そして「教養の時代も専門科目に入ってからも、面白い授業がいっぱいありました。先生方も研究資料もすばらしく、一流の環境でした。卒論作成でも的確なアドバイスをいただけました。阪大に心から感謝しています」と、熱烈なエールを送ってくれました。
▲卒業にあたり文学部の友人たちと豊中キャンパスに集まり、学位証を手にする小堂さん(左)