StoryZ

阪大生にも、研究者にも、卒業生にも誰しも必ずある“物語”
その一小節があつまると大阪大学という壮大なドキュメンタリーを生み出します。
それぞれのStoryをお楽しみください。

マッサンと同じ阪大へ

JR呉線竹原駅から15分ほど歩くと、古き町家の情緒が今も残る瓦葺き屋根の街並みと出会う。この地で江戸時代から「竹鶴酒造」を営む旧家に、竹鶴壽夫さんは生まれた。中学では広島県内No.1になるほどテニスにはまっていたという。父の背中を追い、広島大学附属高校へ。「4歳のとき父親が原爆で消息不明になり、母親からは、ずっと『大学を卒業して1日でも早く家業を継いでほしい』と言われていました」。

他の職業に興味もあったが「代々受け継いできた酒蔵を守りたい」という気持ちに揺るぎはなかった。

当時の酒造会社は「社長は文科系の学問を学んで、酒造りは杜氏に任せる」のが主流。しかし「これからは経営者も理科系の教養を身につけないといけない」と考え、醗酵工学科があった大阪大学工学部を受験。広島大学にも同様の学科はあったが「近くに灘や伏見があって日本酒を勉強するためには大阪は良い環境だと思った。政孝が阪大で学んだことも頭にありました」と話す。

よく学び、よく遊んだ4年間

4年間の下宿生活は「遊んでばかりでした」と笑顔で振り返る。「母親が毎月、原酒(一升瓶)を10本送ってくれました。それをかぎつけた友人がしょっちゅう下宿に飲みに来ていました。あの時代は日本酒業界も景気が良くて。贅沢をさせてもらって、半期で4500円の授業料を年に3回も4回も母に催促していましたよ(笑)」。

追試をなんとか突破して醗酵工学を学ぶ専門課程へ。「歓迎会では、ビーカーを酒杯代わりにして、先輩から安い酒をたくさん飲まされました」と豪快なエピソードを披露する壽夫さん。一方で、酒造りに関する実学はしっかりと身につけていった。

印象に残っているのは、4年生の時、兵庫県の酒造会社での1週間の実習。「酒造りの全作業を体験できたことは、のちのち本当に役立ちました。ただ、3時間くらいしか寝られなかったし、食事も40人くらいが大きな鍋に入ったものを食べるのですが、自分たちに回って来る時には、ほとんど具が無くなっていて……。ハードな1週間でした」。

竹原に帰って家業を継ぐ

さらに阪大卒業後の1年間は、東京の国税庁醸造試験所で実習に励んだ。「高度経済成長が始まったころで、将来は米が足りなくなると予測されていました。そこでカリフォルニア米で日本酒を造る(米不足にそなえるための)最先端の実験にも立ち会うことができました」。1964年5月、竹鶴酒造に役員として入るが、試験所の所長に言われた「酒造りは杜氏に任せて、口を出してはいけない」を実践。「経営に専念しましたが、取引先と酒の品質などについて話す時などは醗酵工学を学んだことを(好意的に)評価していただきました」。

マッサンブームに流されず

壽夫さんが竹原市に戻った当時は、酒蔵が全国で4400軒もあったが、現在は1500軒。竹原市でも9軒が3軒に激減した。日本酒を取り巻く厳しい現状の中で、今も心に刻んでいるのは、政孝さんから聞かされた「本物をつくれ、本物をつくらないと生き残れない」という言葉だ。

「プロダクトアウト(造り手が良いと思うものを造る)とマーケットイン(売れるものを造る)で分けると、政孝の考えは前者。政孝の父、敬次郎は、この地特有の軟水を使ったおいしい酒を造ろうとし、政孝はその父の姿を見て育ちました。だから政孝の考えの基本は日本酒造りにあるのです。私たちも『酒を造るのではなく、自然の恵みをいただく手伝いをするだけ』という強い思いでいます」。

昨年から今年にかけて予想もしなかったマッサンブームが起こり、注文が殺到した。しかし「これまで支えてくださった酒屋や飲食店に迷惑をかけられません。ブームで売れた酒は続かないのは分かっていますので、新規取引はすべて断っています」と馴染みを大事にする姿勢は一貫している。

海外で高評価 日本酒の未来は明るい

現在は長男の敏夫さんが社長として杜氏の石川達也さんらと店を守っている。だが壽夫さんは「継がせる気持ちはなかった」という。敏夫さんが子供の頃は「彼が大学を卒業する頃には酒造業は成り立たないかもしれない」と思っていたからだ。

敏夫さんは、政孝さんや壽夫さんが通った阪大へ進む。阪大を選んだのは「父も政孝さんも通った大学だったのが大きな理由」だという。ただ酒造りを継ぐことは考えていなかったため、基礎工学部で物性物理を専攻した。しかし、敏夫さんも在学中に酒造りに興味を抱くようになり、卒業後は東広島市の醸造研究所(現(独)酒類総合研究所)で2年間勉強して後継者となった。

国内では日本酒離れといわれているが、「和食が世界遺産になったこともあって、海外で日本酒が認められはじめています。情報がすぐに伝わる現在では、海外の評価が国内での評価に繋がるので将来は明るい。これからも小さくても存在感のある蔵でありたい」と力強く語る壽夫さん。阪大で学ぶ後輩たちには「適塾の流れをくみ、素晴らしい先輩も多い。商都にある大学として、誇りをもって頑張ってほしい」とエールを送る。

●竹鶴壽夫(たけつる ひさお)氏
竹鶴酒造株式会社代表取締役会長。1963年大阪大学工学部醗酵工学科卒業。国税庁醸造試験所研修後、64年竹鶴本家13代当主として家業を継ぐ。社長として会社を経営するとともに、95年から広島県議会議員を3期務める。

●竹鶴敏夫(たけつる としお)氏
竹鶴酒造株式会社代表取締役社長。1998年大阪大学基礎工学部物性物理工学科卒業。国税庁醸造研究所研修後、竹鶴本家14代当主として家業を継ぐ。現在、一般社団法人竹原市観光協会理事。


企業情報

竹鶴酒造株式会社(広島県竹原市)

創業は1733年。「小笹屋」の屋号で営んでいた製塩業から酒造業も始める。「竹鶴」の名は家裏の竹藪に鶴が飛来して巣を作ったことに由来する。人工物を排し、純米酒のみによる濃醇で質の高い酒造りを信条に伝統的な製法で日本酒を造り続けている。屋号を冠した「小笹屋竹鶴」「秘傳」などの銘柄がある。

(本記事の内容は、2015年6月大阪大学NewsLetterに掲載されたものです)

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