StoryZ

阪大生にも、研究者にも、卒業生にも誰しも必ずある“物語”
その一小節があつまると大阪大学という壮大なドキュメンタリーを生み出します。
それぞれのStoryをお楽しみください。

地元石橋 「アンテナショップ」

阪急石橋駅東口から歩いて3分、阪大豊中キャンパスへの道沿いに、蔦が印象的なカフェ「NU−」はある。広くとったガラス戸と窓を通して、学生らが行き交う通りと中庭が見渡せ、植物の緑と木の風合いが南国のリゾート地を思わせる。「私の隠れ家です」と言いながらも、「実際は店のみんなが働いている時に、社長が来て飲めませんよ」と苦笑する。自社事務所の「実践的なアンテナショップ、基本コンセプトを提示する場」として開店した。目指したのは「自分にとって居心地のいい、飽きのこない空間創り」。流行や装飾といった要素から離れ、自然素材やシンプルな色、形で落ち着きや統一感を打ち出している。

父母の影響で建築の道へ

建築家を志したきっかけをこう語る。「美術が好きだったんです。幼い頃から絵画教室に通っていましたし、中学、高校時代は美術部。おふくろも友禅染など創作活動が好きで、その影響もあると思います。頭は理系で、ち密な計算が得意。それで建築デザインが好きな道になりました」。「鶏口となるも牛後となるなかれ」という父からの言葉も意識の中にあり、自然に自分の好きなことで身を立てる意志が育っていた。東京の大学に行きたい気持ちもあったが、第一志望である阪大建築工学科に。生まれ育った池田市から吹田キャンパスに通った。

あこがれの建築家慕って米留学

阪大での学部生時代は、美術部での思い出が懐かしい。「体育会系みたいで上下関係にもまれ、けっこう面白かった。和具(三重県志摩市にあった臨海学舎、既に閉舎)で合宿し、1年生が海に潜って貝を採り、2年生が洗って3年生が調理して、4年生が食べるんです。女子大との合コンもあり楽しかった。勉強はちょろっとして、それでもそこそこの成績はとっていましたね。要領はいい(笑)」

大学院修了後は、当時好きだったポストモダンの建築家チャールズ・ムーア氏が教えていたUCLAに留学。大嶋さんにとって氏の魅力は「おもちゃ箱をひっくり返したような楽しいデザイン」。「真四角のビル、ガラス張りといった近代建築とは少し違う、歴史を感じさせるような人間らしい建物を作る先駆者」にひかれたという。

建築家の哲学磨く

帰国後は都市計画の事務所で団地の計画や再開発などの仕事に携わった後、工務店に勤務。木造、コンクリート、S(鉄骨)造の現場を順に経験する中で「業者さんとも仲良くなり、後に事務所を開いてからも『どうしたらええん?』などと聞けるルートができ、お世話になりました」。建築現場の実情を知ったことで、良くも悪くも「常識的な判断」が身に付いたという。デザイン性に走らず、建ってから後のことを見据えて採算や実用性を大切にする地道な設計のあり方が、その後の大嶋さんの基本姿勢となった。「建物は残る。最後まで面倒をみるのが建築家の社会的な責務」と考える。

「ビフォーアフター」出演も

10年ほど前には、建築家の知恵で家の悩みを解決する朝日放送のテレビ番組「大改造!! 劇的ビフォーアフター」に出演。狭い土地に建つ住宅のリフォームなどを手掛けた。これまでさまざまな注文、要望に対応する上で自ら大切にしてきたのは「自分の能力を120%に高める」努力。そうすれば余裕を持って勝負できるといい、それを若い人にも求める。また、大嶋さんにとって、建築の居心地の良さとは意図して作りだすものではない。「工芸と一緒で、積み重ねた経験と感性をもとに、普通にやった結果生まれるものが本当に素晴らしい」

自身を称して「向こう意気が強いし、筋が通らんことはビシッと切ってしまう。面白いものには早く飛びつき、アカンと思ったら逃げ足は速い」と笑う。施主とけんかになったことも一度ならずあるそうだ。「でも意外に、その後でかえって仲良くなったりしましたね」

「古き良き日本」があるタイへ拠点移す

ここ数年は、友人を通してタイとのつながりを持ち、近い将来、同国に拠点を移しての飲食店プロデュースなど新たな計画が進行中だ。「タイは古き良き日本を思い起こさせ、人情味がある国。誰か1人が頑張ると周りの10人が幸せになる。対して日本は縮小社会で、1人が富を蓄積すると周りに困る人が出る。その違いは大きい」。今という時間と場をゆったりと楽しむタイの人たちの中で仕事をする生活設計を描いている。

知識より その使い方学べ

経営する「NU−」が所属する飲食店の組織「石橋下町倶楽部」の活動を通し、意欲的で活発な阪大生と接する機会も多い。一方で、一般的に最近の若い人たちについて感じるのは、あふれる情報を選択し判断する力が乏しく、できないことから逃げるひ弱さだという。以前、私立大学で教えていた頃も、学生には「正しいとされていることをまず疑ってかかりなさい」と助言していた。一方、学校側に対する助言として「知識を詰め込むのではなく、知識の使い方を教えてほしい。サッカーで言えば、『最初にルールを教えてどないすんねん。とりあえずボールで遊ばせよ』と。使い方がわかれば次のステップで知識はどんどんついてくる。知識の使い方は人によって違い、体系だって教えるのは難しい。でも無難な道を変えていかないと」。後輩を温かく、時には厳しく見守っている。

(本記事の内容は、2014年6月大阪大学NewsLetterに掲載されたものです)

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