StoryZ

阪大生にも、研究者にも、卒業生にも誰しも必ずある“物語”
その一小節があつまると大阪大学という壮大なドキュメンタリーを生み出します。
それぞれのStoryをお楽しみください。

古き面影を残す安立の街並み

住吉大社を後にして、鳥居前から阪堺電気軌道の路面電車に乗って南へ下った。

平野 「中学、高校時代もこのチンチン電車で通学していました。周りの風景は当時とさほど変わっていないなあ」

大和川手前の停留所で下車。この付近が平野総長の生まれ育った「安立町」だ。江戸時代には住吉大社の門前町として発展した。

平野 「江戸初期の良医、半井安立に由来する地名です。庶民のために医術を尽くした人で、適塾を開いた緒方洪庵にも通じます」

格子戸や土壁など古い軒並みが今でも残る。旧紀州街道の名残りだ。子どものころから 親しんだ「安立商店街」を通る。「一寸法師」ゆかりの地とのこと。

平野 「昔はもっとお客さんが多かったですよ。当時このあたりではどの家も年末は12月31日まで働いて、それから正月の買い物にかかったから、この商店街は大晦日の夜遅くまで賑わっていましたね」

商店街を抜けて真っ直ぐ北へ進むとすぐ、万葉集にも出てくる「霰松原」の碑文が立ち、母校の大阪市立安立小学校が見えた。

平野 「このあたりに私の教室があったんです。校舎は建て替えられていますが」

校舎を眺めながら当時を懐かしそうに思い出す。その後自宅に向かった。商店街から続く街道沿いに建つ3階建て。間口はそれほど広くないがかなりの奥行きがある。

平野 「ここで父親が『平野医院』を開業していました。1985年に父親が亡くなって医院は閉じました。私が医学部に進んだのも小さい時から医療の空気の中で育ったからでしょうか、自然と医学の道を志していましね。特に父親から跡を継いでほしいと言われたことはありませんでした」

「家族を大切に」

奥様の千代子さんは中学、高校の後輩で、一緒にバイオリン教室にも通っていた。

夫人 「結婚した後も夫は研究一筋でした。だから私は結婚当初から受験生の母親のようで したよ(笑)。仕事一途でしたが、2人の娘や両親、家族みんなを大事にしていましたね。娘が思春期のころ悩むのを見てメールをしたこともありました」

平野総長の家族思い、家庭的な一面が垣間見えた気がした。学生時代から大事にしていたレコードプレーヤーがリビングに置いてあった。音楽で疲れを癒すという。
続いて、書斎に案内してもらった。村上春樹や司馬遼太郎などの小説に混じり、手塚治虫 の漫画本や趣味の雑誌なども並んでいた。

平野 「自動車の運転が好きなので、その専門書なども読んでいます。休日にはよく家内とドライブもしましたが、総長に就任してからは その機会も少なくなってしまいましたね(笑)」

屋上に上がると、あべのハルカスや遠くに金剛山などが望める。かつて家族でキャンプに使っていたアウトドアチェアなどが置かれていた。

平野 「娘が小さいころは、ここでよく食事もしました。今は夕日を眺めながら、じっくり考え事をするのがここです。(離れを指さし)高校生のときに作ってもらったあの離れの屋上で天体観測をしていましたよ」

屋上は平野総長のお気に入りの場所のようだ。
最後に、もし総長になっていなかったら、との質問を向けた。

平野 「やはり研究者を続けていたでしょうね」

インタビューを終えて

恩師・山村雄一元総長の命日(6月10日)に総長に選出された。天命かも知れないと感じたという。山村先生の言葉「夢見て行い考えて祈る」を座右に置き、後輩たちには、「目の前の山を登りきる」「夢は叶えるためにある」とメッセージを送る。7年前、肺がんの手術を したときに残りの人生を大阪大学のために捧げる決心をしたという。「阪大を世界トップ10」に、その道のりは険しいかも知れないが、頂を目指して一歩一歩登って行く。それが平野総長の阪大への恩返しなのかも知れない。

(本記事の内容は、2014年6月大阪大学NewsLetterに掲載されたものです)

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