StoryZ

阪大生にも、研究者にも、卒業生にも誰しも必ずある“物語”
その一小節があつまると大阪大学という壮大なドキュメンタリーを生み出します。
それぞれのStoryをお楽しみください。

目標を達成して味わえる喜び

神戸高校でいずれも運動部主将を務めていた親友4人組は、大阪大学を目指していた。中学からテニスに熱中していた竹内さんも無事合格。入学前の3月26日には軟式庭球部に入部し、入学式当日はコートに立っていた。高校時代に全日本ランク7位だった実力で、1年生からレギュラーに。朝から夜まで練習に明け暮れ、「勉強はしなかったなあ」。そして秋には、団体戦で創部初の1部昇格を果たし、個人でも好成績を収めた。

ところが、3年で主将に就いた時には、過去にない3部に。この試練が、後々に竹内さんの財産となっていく。「先輩に申し訳ないと思い、〝粛正〟をやりましたよ」と振り返る。「学生服を着用する。1年生は上級生から注意される前に部室の清掃をする」といった「部員注意事項」を徹底した。80人いた部員は半減したが、個々人の責任感は高まった。「勝つことだけが目的じゃないけれど、人より先んじる目標を設定して、それを達成して喜びを味わえるのが人間なんです」。この考えが、今の竹内さんの根底にある。

級友の友情に支えられ

試験中は、部室で寝泊まりしながら勉強する徹底ぶり。学部の級友たちも、よく支えてくれた。ある時、寝坊して試験に遅れた。答案を書き終えた学生は退室できるのだが、試験問題の漏洩防止のために1人でも部屋を出れば、遅刻者は試験を受けられない。「敬介がいないぞ」と気づいていた級友たちは阿吽の呼吸で退室を控え、終了20分前に教室に飛び込んだ竹内さんは、おかげで試験を受けることができた。基礎工学部の化学教室には、そのような温かな空気があった。

当時の大阪大学はボート部が優勝するなど、まさに文武両道を歩んでいた。「阪大は明るくて自由で、好き勝手なことができる雰囲気だった。いろんな地方から集まって来ているから、幅広い交流ができたことも大切だった」と振り返る。

机上でなく実物にぶつかれ

日揮に入社して、まず静岡の建設現場で「机上でなく実物にぶつかること」をたたき込まれた。続いて、横浜で石油プラントの設計をしていたら、「それを自分の目で見て来い」とシンガポールへ派遣された。当初2週間の予定だったのに、明けても暮れても仕事が次々に湧き出てくる。

「帰国時期が内定するたびに、会社が妻に『近いうちに帰国しますよ』と連絡してくれるのですが、それが何度も先延ばしにされて、妻はとうとう会社に『今度は、ちゃんと帰国してから連絡してください』と言い返したみたいです」

中国に駐在している時には、猛吹雪のなかでプラントの仕様を変更せざるを得なくなった。現場の職人がそれを受け入れてくれるはずがない。竹内さんは黙々と、その工事を率先して自分の手でやった。そして迎えた竣工式。地元の人たちが「式典のトップに並ぶのは、(本社の人でなく)竹内先生ですよ」と言ってくれ、万感の思いだった。中国を去る時、工事関係者だけでなく、駅舎に勤める人までが大合唱で送り出してくれ、涙涙の別れとなった。各地の工事現場で親方たちに鍛えられた竹内さんの姿勢、人柄が、どの国に行っても生きてきた。

信頼関係築いて新分野を開拓

エネルギー、石油化学など大型プラントの設計・建設工事が日揮の主力だが、 世界経済の波をまともに受けてしまうリスクも内在していた。そこで約25年 医薬品 病院など生活に直接かかわ る現在の多角的な企業体を目指すため、その新規開拓が竹内さんに任された。エネルギー、石油化学分野では世界にとどろく日揮だったが、新分野では新参。毎年1月の仕事始めから、大阪・道修町に日参する竹内さんの姿があった。医薬品会社を1社1社まわったのだった。そうして築いた信頼関係が、「未来のエンジニアリング企業体」を目指す今の日揮の姿につながっている。

外から日本見る目を養え

確かに、今の若者は頭が良い。しかし、大切なものを忘れているのではないかと感じることもある。「学生時代には、勉強も大事ですが、規範、道徳観、社会人としてのマナー。これを身につけておくことが大切だと思います」

「グローバル人材」という言葉についても、「欧米化」と解釈されているようだが「もちろん語学は不可欠。だが、『日本人の心』をもった世界に通用する人材が求められているんですよ」と力を込める。同社が海外でプラント建設を行う場合、「技術だけでなく、誠実な日本の心も一緒に移植してください」と依頼される。「だから、どんなに海外に進出しても、日本人のサポートは必ず求められる。日本が空洞化することなんてありえません」

新入社員の多くが「親や先生にしかられたことがない」という現状に危機感を持ち、「若い人はどんどん外に出て、叩かれ、そして外から日本を見る目を養ってほしい」と願う。

今も国内外を駆け回り、関西に戻る機会は少ない。それでも今年の敬老の日には、神戸の実家に帰り、まもなく90歳になる母の手を引きながら散歩した。「一緒に暮らしている妹に感謝している?」と尋ねたら、母がにっこりうなずいた。「私も、もっと親孝行をしないとね」

(本記事の内容は、2012年12月大阪大学NewsLetterに掲載されたものです)

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