item7b
item2 item4
 
七年制高等学校という特色
待兼山青春の軌跡
モニュメント「友よ我らぞ光よと」
全国寮歌祭2010 浪高の部
愛唱歌 浪高歌集より
同窓会の沿革
item6a1
item6a2
日本の高等教育(熊谷信昭)
item12a2
木村先生 紹介文
資料目次
旧制浪高周辺の「昔と今」
item10
item13
item16
item19

七年制高等学校の特色

旧制浪速高等学校創立当時、七年制の高等学校は 東京・富山・武蔵・成蹊・甲南・台北の六校でしたが、内三校 (武蔵・成蹊・甲南) は私立の高等学校でした。関西では 初めての公立の七年制高等学校ということで、浪高尋常科が世間の注目を集めていました。

七年制高等学校は1919(大正8年)の高等学校令によって初めて制度化されたもので、当時、その歴史は新しく、しかも財政事情から 尋常科を置く高等学校は稀でありました。官立では1921年に設置された東京高等学校が唯一で、当時は広く理解されているとはいえず、浪高の高等科に入学してくる生徒の中には、入学してから初めて尋常科の存在を知ったという者もいました。旧制浪高に限らず、尋常科のあり方が注目されていたのです。

初代 三浦校長は常々「西の学習院」を標榜して、その特色を養うことに努め、その一つの表れとして、学習院スタイルの制服(海軍将校型)を採用されました。長年、旧制今宮中学校の校長を体験した三浦校長をはじめ学校当局では新しい学校に相応しく、授業内容を様々に工夫を加え、例えば 甲週、乙週の二通りの授業時間表を設けてられていました。甲週は普通に六日間の授業でしたが、乙週には授業は金曜日までの五日間で、土曜日は野外演習に当てられました。知識に溺れず、社会や自然の実地観察を重んじる校風は この制度の廃止後も変らず、浪高尋常科の伝統になっていたのです。

物理や化学の授業も一年から理論よりも実験を主として行われ、また当時の中学校としては音楽の時間も充実していましたから、尋常科の生徒達は 全員 楽譜を読むことができたのです。

旧制浪速高等学校同窓会

外部サイトリンク集